女房も呆れる我らが「付き合いの濃さ」 【東京あさぼらけ第2号】

八久保弘之(高9)  会社を北九州市・戸畑に移すと同時に八幡に単身赴任してから早いものでもう一年が過ぎ、夫婦二人で福岡町に住まいを移してからも半年を超えました。  当地での一年は、活気はあったものの雑務に追われて過ごした東京とは全く別の生活です。まず、人情に厚いものを感じる場面が多いことです。次にラッシュアワーの時の混雑度の違うこと。毎日座って通っています。また魚が新鮮で安いこと。先日、居酒屋でカンパチを頼んだら、たった千七百円で何と半身が刺し身、残りの半身が握り寿司、頭と骨がみそ汁で出てきました。これには、ただただ感激の一言。  九回生は九栄会と呼んでいますが、この付き合いがホントに多いです。年一回の九月九日の例会は勿論のこと、年三回のメモリアル・クラシックゴルフコンペ、十二月は当然のことながら忘年会、新宮松比古君(福岡県議会議員)の選挙があると応援に集まり、何となくても「みずかみ」に行けば、九栄会の誰かが飲んでいる。  この付き合いの濃さには、女房が呆れています。先日も同窓生夫婦と九州場所の相撲を見てから、ここで他同窓生と一緒になり、それが縁で柴犬の子をもらうことになりました。今日、その子犬がわが家に来て、今「くーんくーん」と甘え鳴きをしています。カワイイ!  さて、最後にお願い事です。一昨年は広報委員長として、皆さんの応援を得て『東京あさぼらけ』の予告号と創刊号を発行しましたが、私の転任後一年間発行をパスしたと聞いて誠に残念です。私のような素人でも、皆さんの協力で曲がりなりにも発行できたのですから、かつて福高時代に新聞部で活動された方々、社会に出てこの方面で活躍の方々、経験がなくてもひとつやってやろうと意欲のある方々に、ぜひ『東京あさぼらけ』の発行を続けていっていただきたいものです。  ・・・ 続きを読む

なんばしよっと-元気印も初めて入院・手術を体験。でも何かを始めたい 【東京あさぼらけ第2号】

水月和子(高4)  人から「元気印」と言われ、私自身も健康だけは人並み以上という思い込みから年も考えずに飛び回っていましたら、一昨年春、同窓会総会を目前にして突然、心臓の弁が壊れるという事態が生じ、生まれて初めて入院、手術、療養生活を体験しました。少しの手遅れで命を無くしていたかもしれない、と後で聞かされ、健康を過信するものの怖さと体力の限界を知りました。  「今まではウサギのように跳ね回っていたけれど、これからは亀のあゆみを」とは同級生の一人からの、ありがたい忠告でした。この言葉を心して、今は仕事を持つ娘の子育てを手伝いながら元気に過ごしています。  私たち高校四回卒業生は、昨年「還暦の出会いから五十年」を迎え、秋に記念の同窓会を開きました。いつの間にかシルバーエイジの仲間に入り、久しぶりに参加して懐かしい友達に会い、顔を合わせた瞬間はお互いに年を取ったなと感じましたが、そこは同級生、話しているうちにタイムスリップして十代の昔に帰り、楽しく賑やかなひとときを過ごしました。  体力や記憶力は年とともに低下しても、日だまりで背を丸めて過ごすようにはほど遠く、まだみんな意欲、活力は若々しく元気でした。その若さを長く維持していくためにも、積み重ねてきた貴重な知識や体験を出し合って、世の中、人のため、自分のために何か始めようという話も出ました。  縁あって「東京福中・福高同窓会」のお手伝いをして参りましたが、故郷を離れて暮らしている私たちの、ひとつの心の拠り所となるこの「東京福中・福高同窓会」が、時が違っても同じ福高で過ごした先輩、後輩との新しい出会いの場となり、縦の繋がりを強めて、ますます発展し充実していくことを心から期待しています。  ・・・ 続きを読む

恒例行事として定着した学年同窓会ホームページも開設 【東京あさぼらけ第2号】

野田邦弘(高22)  わが福高二十二回生は、同二十三、二十四回生と一緒に、一九九七年の東京福中・福高同窓会の幹事、盛り上げを担当しました。この同窓会を盛り上げるため、成功させるため、二十二回生独自の集まりを行いました。(幹事は鳥飼辰登、鍛冶文枝=旧姓豊福)。  運営費を徴収し、幹事を持ち回りとするなど学年の恒例行事として定着したと思います。毎回二十人程度の参加があり、高校卒業以来二十数年ぶりに再会するケースも多く、毎回誰が参加するか楽しみです。また、女性だけの集まりも何度か行ったそうです。  なお、二十二回生のホームページも右のアドレスで開設しましたので、ぜひご覧ください。  ホームページのアドレスは http://netpassport-wc.netpassport.or.jp/~wfukkou/K22/K22PAGE.HTM  ・・・ 続きを読む

博多だより-母校校舎に晴れの「福岡市都市景観賞」 【東京あさぼらけ第2号】

思い出深い母校の校舎が昨年十一月九日、「福岡市九九年度都市景観賞」に選ばれました。この賞は十三年前に創設され、都市空間を演出する優れた建物や企画などを表彰するもので、市民から対象を募集しています。今回は過去最高の九百五十八通の推薦が寄せられ、母校校舎は九州大学事務局第一庁舎、福岡簡易保険事務センターなど他の七件とともに選出されました。  母校の校舎は昭和四年に竣工、七十年の風雪に耐えて幾多の同窓生を迎え、そして見送ってきました。人間ならぬめでたく古希を迎えたことになりますが、まだまだ十分な耐久性を持っているとのことです。昔の良い建物が博多の町から次々と消え去っている今日では、母校の校舎は貴重な歴史的建築物です。  在学中、「この校舎が建った頃は、県内はもちろん県外からも多数の見学者が見学に訪れた」と聞いたのを思い出します。維持管理には関係者皆さんのご苦労も多いことでしょうが、これからも長くその懐かしい姿を私たちの前にとどめてほしいと願っています。校舎の外壁は美しくなり、門扉は新調され、さらに中庭(パティオ)には同窓生の外尾悦郎さん(高二十五回)制作の素晴らしいモニュメントも。博多へ帰省された時は、ぜひ訪ねてみてください。 (高16回・広報委員・・・ 続きを読む

「東京福中一八会」の始まり(創刊号続き) 【東京あさぼらけ第2号】

ラガーマン最高の栄誉「キャップ」の友と……  諸岡健治郎(高1)  初回の会合からしばらくして、幹事役をしてくれた渡辺哲司君が日立製作所の子会社の社長として栃木県へ転勤することになったので、その壮行会を兼ねて昭和五十八年二月十七日に湯島の玉善という小料理屋に集まりました。その顔触れは大石勇吉、片山伸也、國崎一郎、志波正孝、田渕靖昌、土屋英明、平野治、帆足昭蔵、三亀順蔵、宮石哲郎、宗像博人、諸岡健治郎、渡辺哲司の各君、それにその日、福岡から上京して来ていたラグビーの宗博之君も加わり、十四名となりました。  当日は土屋英明君が、ラグビーの「キャップ」(国代表チーム同士の公式国際試合に出場した選手に与えられるラガーマン最高の栄誉)の授与を受けて間もない時期だったので、「どんなものか」という同期生たちの要望に応えて、照れながらも現物を披露してくれたのです。同席者も、またとない記念だと互いに被りあったりして会が盛り上がったものでした。  そして、昭和十八年入学の我々の集まりを「東京福中一八会」と正式に名付け、会長には昔からのガキ大将がよかろうということで、土屋君が引き受けさせられたのでした。そして、いつもの調子で「今度の一八会は、もう少し広かところでカラオケば置いてパーッとやろうや」とか、「オキユウトば切らせるけん、二次会に行こう」など大いに語り合ったのです。  が、思えば、それが彼との最後の会話となってしまいました。彼はその年の六月十三日、心不全のため突然逝ってしまったのでした。まだ五十四歳の働き盛りでした。  ※前号で紹介した築地の新三浦での同窓会の出席者に大石勇吉君の記載を漏らしていました。お詫びして訂正します。  ・・・ 続きを読む

東京福中・福高同窓会ホームページへどうぞアメリカからも「懐かしかぁ!」 【東京あさぼらけ第2号】

加藤忠夫(高15)  東京福中・福高同窓会ホームページを開設して、もう三年に入ります。三年前の同窓会総会担当が五回、十五回、二十五回卒業に回って来た際の準備の会合の席で、いかにすれば総会出席者を増やせるかで議論になり、「宣伝が必要だ!」「若い人に来てもらうには、ホームページが一番よい」「じゃ、ホームページを作成したことのある人?」、そのとき迂闊にも小生「ハイ!」。その結果、「では加藤さん、ホームページの作成をお願いします」という安易な動機と安易な人選で同窓会の臨時ホームページを開設してしまったわけです。  それがいつの間にか同窓会の正式ホームページとなり、予算までついて今日に至っています。開設当時、どれほどの効果があるのか全くの未知数でしたが、日を経るにしたがって少しずつ訪問者が増えて、アメリカから「異国の地で懐かしく拝見しました」とか、大学の先生から「助手の募集記事を載せてほしい」など、実にいろいろの方たちから連絡をいただいています。  住所変更・登録等も当初はどれほど希望が来るのか心配していましたが、結構ポツポツ入ってきます。同窓生のホームページへのリンクも少しずつ増えています。  私の夢としては、東京の福岡の同窓会でホームページを開いていただき、住所録などはそこで一元管理して、各地域のホームページは地域の同窓会活動の核となり、会員の交流の中心として位置付けていきたいのですが……。それに、もっと世代間の交流を盛んに出来る場を作っていきたいと願っています。最後に、ページの運営に協力していただける方、連絡をください。また、こんなことをやって欲しいなどのご意見もぜひお寄せください。  ・・・ 続きを読む

福中第一回卒長寿の秘訣は「あせらず、悲しまず、たじろがず、はばからず、やりすぎず……」田中太郎さん(95歳)に聞く 【東京あさぼらけ第2号】

福中第一回卒(大正十一年)の大先輩である田中太郎さん(横須賀市在住)は、六年前に新聞の同窓会案内で東京福中・福高同窓会総会の開催を知って出席され、その後も出席いただいています。今回、九十五歳の誕生日をお元気で迎えられたのを機にお話をうかがいました。  二年間は修猷館の寄宿舎を仮校舎に  ――満九十五歳、おめでとうございます。 田中 ありがとうございます。明治三十七年(一九〇四年)八月三日の生まれです。日露戦争開戦の年で、名前の「太郎」は、当時の内閣総理大臣である桂太郎に因んで付けられました。  ――ご出身は。 田中 佐賀県の鳥栖です。鳥栖尋常小学校に入学しましたが、福岡市の中之庄町に移転し、轟尋常小学校を卒業し、新設の福岡中学校に入学しました。  ――福中時代の思い出を。 田中 入学した当初はまだ校舎がなく、二年間は修猷館中学の寄宿舎を利用した仮校舎に通いました。同期生は二百名でした。当時の電車賃が一銭五厘だったのを覚えています。軍事教練があり、中園淳太郎先生にしごかれたのを思い出します。特にゲートルの巻き方が大変でした。また、英語の橘崎広之介先生は厳しく、孟宗竹の棒で叩かれましたね。  それに、当時は相撲が盛んで、相撲大会で修猷館と対戦し、福中が勝って意気揚々と行進をしました。私は出場しませんでしたが、同級生たちと卵の差し入れをしました。三年の時に新校舎に入りました。福中の隣のタバコ工場(現JT)の倉庫に入り込み、葉巻を失敗して吸ったこともありました。  私のあだ名は「ミスターワイヤー」で、文字通り身体が細かったのですけれど、頑健で福中時代は皆勤でした。山登りが好きで、一人で英彦山、阿蘇山にも行きましたよ。  食べ物は百回噛む  ――卒業後は。 田中 当時の進学先は旧制の高等学校の他に海軍兵学校や陸軍士官学校などがありました。私は、父の転勤で茨城県の古河に転居したこともあって、浦和高等学校に入りました。新設の高校でしたから、ここでも第一回の卒業生です。  大学は東京帝国大学工学部機械工学科に進み、昭和三年に卒業して鉄道省(国鉄・JRの前身)に採用されました。当時は不況で就職難でしたが、運よく入れました。戦後は運輸省に移り、昭和二十七年に退官しました。退官後は機械・電気関係の会社を設立し、カセットレコーダーのオートリバース装置や自動車の電動方向指示器などの特許を取得しました。  ――最後に長寿の秘訣をお聞かせください。 田中 私の場合、食べ物をよく噛んで咀嚼するよう気をつけています。百回噛むようにしています。また、あせらず、悲しまず、寂しがらず、たじろがず、嘆かず、はばからず、紛らわさず、やり過ぎず、乱暴せず、わめかずを心掛けて日々を過ごしています。  ――本日は、良いお話をありがとうございました。ますますお元気でお過ごしくださいますよう後輩一同お祈り致しております。  ・・・ 続きを読む

会長あいさつ「継続は力なり」で 【東京あさぼらけ第2号】

会長 三野定(中15)  『東京あさぼらけ』第二号が発刊されることになって、大変喜んでいます。事務局長はじめ広報委員の皆さんのご苦労に心から感謝致します。  昨年六月、思いもかけぬ成り行きで、バルト三国のひとつエストニアの首都タリンを訪れました。そこで胸を打たれたのは、「歌う革命」の話と歌の祭典の会場でした。  エストニアは十八世紀初頭、ロシア皇帝の統治下に入り、その後二世紀にわたって農民は奴隷同様の生活を送られたのです。ロシア革命後、幾度も独立しようと試みたのですが、その都度つぶされ、随分搾取もされたようです。ソ連は、民族の強制的な「入れ替え」もやっています。  そのような逆境の中で、エストニア人の独立への願いを繋ぎ、団結を維持し得たのは、歌の祭典だったといいます。一九八八年六月に催された祭典には、毎夜十万人を超える人々が集い、独立への要望を歌に託したのです。爾来、この夏の行事は、「歌う革命」(Singing・・・ 続きを読む

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