東京あさぼらけ新聞 第2号になります。スマートフォンの方でダウンロードしたい方や下記のPDFビューアーが正しく表示できない方はこちらからPDFへ直接リンクしています。 ・・・ 続きを読む
■ 編集後記 ■【東京あさぼらけ創刊号】
・広報誌の誌名は、福岡高等学校同窓会の「朝ぼらけ」編集委員会の了解を取り、「東京朝ぼらけ」とすることで、常任幹事会の承認を得た。 ・題字の揮毫は青邱さん(小島和夫氏)にお願いした。 ・同窓会に関する、記事、写真、情報を求む! ・創刊号は写真も広告もなし。次号では格好をつけなきゃ。 ・やっと終わった。たった4人の広報委員で、編集の経験者は2人だけだもん。シカタガナカタイ。 (hiro) ・・・ 続きを読む
高校19回30周年記念同窓会【東京あさぼらけ創刊号】
高校19回30周年記念同窓会 樋口英司(高19) 私たち高校19回は現在関東地区に96名がいます。 年1回1月に学年の同窓会を開いてきましたが、30名前後の集まりでした。 昨年度東京福中・福高同窓会総会の当番幹事を20回、21回の方達と仰せつかりお陰様で、同窓会が活動的になりました。 1組から10組までの各クラス幹事と女性幹事、学年幹事の私とあわせて12名の組織が出来上がりました。 そんな時、タイミングよく卒業30周年がやってきたのです。平成8年度の東京福中・福高同窓会総会にも福岡から3名の同窓生が参加して、今年の卒業30周年の企画作りが始まりました。 私たちの30周年はちょうど80周年に当たる為、80周年の記念行事と同時に参加できる企画にしようと言う事になりました。当然福岡での行事であり、東京からの参加をどう促すかが我々東京側の幹事の課題となりました。総会で作り上げた組織を使い何度か会合を重ね、東京からの参加目標を20名としたのです。次にパンフレットを作り、参加者ニュースを作り、何度も会合を重ね、結局25名の参加を得る事が出来ました。 平成9年6月7日午後6時、レイクサイドホテル久山。一年間かけて準備した30周年記念同窓会です。参加者は先生4名、地元勢が90名と、他の遠隔地から10名、我々東京組が25名、総勢130名でした。先生方には久保田先生(国語)、高原先生(数学)、船津先生(国語)、吉永先生(英語)に参加をして頂きました。受け付けの机の上には、東京の野瀬君が作った高校卒業時の写真入り名札が570枚用意されました。(名札は当日の飛び入りを考慮して全員の分を作りました。) 恐る恐る自分の名前を名乗る者、あつかましく博多弁で指図等をするもの、和気あいあいグループで到着する者、等々、だんだん騒がしくなってゆきました。参加者が揃った所で記念写真を撮り、宴会へと進んでゆきました。30年ぶりの顔は、誰が生徒か先生か分からないくらいでした。50歳を目前にした125名がそれぞれ18歳の写真を胸に付け夜の更けるのも忘れて語り明かしたのでした。 次回は40周年を予定していましたが、40周年まで待てないという人が多く、35周年の再会を約して翌日東西に分かれて行ったのです。 ・・・ 続きを読む
高校9回生活動状況【東京あさぼらけ創刊号】
高校9回生活動状況 祝・・・ 続きを読む
「松浦安弘展」【東京あさぼらけ創刊号】
「松浦安弘展」 亀山忠義(高8) 我等の同期、松浦安弘氏の画業50周年記念美術展が、平成9年10月28日より11月3日まで、福岡市美術館にて開催され、新聞やテレビにも採りあげられました。在校当時から現在までの主要作品が約200点です。その作品集は、全国の美術館にも寄贈されました。 倉富先生、瀬川先生ほか恩師の方々を始め、先輩後輩在校生そして一般の方々、なんとその数、5,000人以上の入場者でした。 構想から5年、準備に2年、総費用約2,000万(作品集の製作費を含む)の大事業。その実行委員会は、会長に青木秀氏(西日本新聞社会長)、事務局長には乃美吉江氏(福高8回)、そして会計に曾根崎文子氏(福高8回)です。 時を同じくして、11月1日、高校8回の還暦記念同窓会が開催され、全員で松浦氏にエールを贈りました。大阪、東京からも多数応援に行きました。 松浦安弘氏の絵は、すでに専門家の間でも高い評価を得ているわけですが、近年ますますその境地は深まってきたと思います。さわやかで、ふくいくたる情感が静謐な空間に満ちております。 「白という魔術師を駆使し、魔法の階和美を繰り広げている…昭和60年代からこの白はまばゆいばかりの南欧の光となる…一瞬にして時間が停止した静寂の世界……」美術評論家・・・ 続きを読む
東京福中・福高同窓会と私【東京あさぼらけ創刊号】
東京福中・福高同窓会と私 水月和子(高4) 早いもので、私ども第1回の女生徒が福高を卒業してから、45年もの年月が過ぎてしまいました。 昭和24年、男女共学の実施により百名近い女生徒が、それまで男子だけだった学校に入ってきたのですから、先生方をはじめ、当時の男子生徒にとっても大変な出来ごとだったと思います。もちろん私どもも、お掃除の行き届いた女学校から、武骨な男子生徒がガタガタと下駄の音をひびかせて廊下を歩いているのを見たときはショックでしたし、また授業の時は、女学校と中学校の学力の差の大きさに愕然としたものでした。女学校での3年間、全くお粗末な勉強しかしていなかった私ども(?)を熱心にご指導してくださった先生方、クラブ活動などで親切に面倒を見てくださった先輩方、共に学び、遊ぶ折々に女子だけの学校にはなかった様々の新鮮な驚きや刺激を与えて下さった同級生、これらの方々に出会えた福高での3年間は、何時思い出しても一番懐かしい大切な時代です。 平成元年に、馬場前事務局長から東京福中福高同窓会の組織作りを手伝うよう、お誘い頂いたとき、時間的なゆとりがあったこともありますが、喜んでお受けしたのは、このように良き師、良き友に出会えた福高が大好きだからでした。故加藤会長を中心に、まず名簿作りからスタートし、会則を作り、翌春第1回の総会を開いた時の出席者数は235名で、その時の会場であった日本工業クラブは身動き出来ないほどでした。 あれから早くも8年になろうとしています。事務局が新しく替わり、委員会が組織され、広報も発行されることになりました。総会にご出席くださる方の数は年ごとに増えて、300名をはるかに越しています。毎年交替の当番幹事の方々は、お忙しい仕事の合間を縫って、出席して良かったと皆様に喜んでいただける総会を開くために、一生懸命頑張っていらっしゃいます。 ふるさと福岡を遠く離れて生活していますと、九州の人というだけでも懐かしさを感じますが、福中・福高の卒業生と聞くとさらに強く親近感を抱くのは私だけでしょうか。ここまで確立してきた同窓会の組織が、ただ総会を開くためだけでなく、同窓生の縦のつながりを生かして様々な活動が出来るように発展していくことを期待しています。そしてまた年1回開かれる総会は同期会の前座で終わることなく、いろんな分野で活躍して来られた先輩の方々や、今元気に活躍中の後輩の方々、福岡との縁がうすくなって寂しさを感じていらっしゃる方々や、初めて東京に出てきて戸惑っていらっしゃる方々の楽しい交歓の場になることが出来たらと願っています。 ・・・ 続きを読む
東京福中18会の始まり【東京あさぼらけ創刊号】
東京福中18会の始まり 諸岡健次郎(高1) 昭和18年に入学した吾々が「東京一八会」として東京で初めて会合をもったのは昭和56年の2月のことである。その時は幹事役として飯田俊郎君と渡辺哲□君が世話をしてくれた。ラグビーの土屋英明君や志波正孝君、それに土屋君と小学校で一緒だった國崎一郎君などが旗振りをしてくれたのではないかと思われた。在京者の数十名に招集をかけ築地の新三浦に次の顔ぶれ即ち、 飯田俊郎、内田□、片山伸也、國崎一郎、志波正孝、田渕靖昌、土屋英明、平野治、帆立昭蔵、宮石哲郎、三秋順蔵、宗俊博人、森浩民、諸岡健次郎、渡辺哲□の15名が集った。 殆んどの者が卒業以来初めて会うようなことで幼な顔から夫々を思い出すのに時間がかかるような有様であった。然し会場は博多の老舗「新三浦」の東京の店(この店は白井善三郎さん〈高3〉、現在は日本ラグビー協会の専務理事、□が代表者の店である)なので料理は勿論、博多での馴染みの深い鶏の水炊きである。当時この店に博多弁のうまい仲居さんが居て「今日のお客さんはみーんな本物の博多弁の解る人ばっかりやけん私も嬉しかー」と仲々座持ち良く世話をしてくれるものだから、一同はすっかり博多に居るような気分になり、大いに食べ、大いに飲み、そして大いに喋ったものでした。 そして、一次会ではおさまらず二次会へ行こうということになり、土屋君が「ロイツ」へ皆んな来やい!というのでタクシーに分乗して新宿歌舞伎町の店へ行ったことが想い出される。この日が契機となり、その後毎年欠かさず集まるようになり現在まで続いている。その後の様子は次号以降に、想い出しながら記述して行きたいと思っている。 ・・・ 続きを読む
同窓会の思い出「東京福中・福高同窓会の草創期について語る」【東京あさぼらけ創刊号】
昭和22・3年から昭和32・3年頃まで 第1回東京福中同窓会の頃は錚々たる大物が居た。福中1回卒の進藤先生と、東京都議会議長をやった大ボスで体も図太い浦部武夫さん、それに電通の副社長だった坂本英男さん達がござった。だから、福中同窓会の発会式は電通本社でひらかれた。昭和23年4月のことよ。 慈父のごとき大親分とも言われる16回卒の杉山竜丸さんも、玄洋社の関係で進藤先生に来いと呼ばれて行った。杉丸さんがその帰りに同期の桑原康敬さんのところに寄って、「今日、福中の同窓会の発会式が行われた。今日が初めてばい。この次からあんたも出て来んしゃい。」と言って帰った。 そのしばらく後で、下北沢の大谷さんの大屋敷を使って、福田赳夫さんが昭和の大茶会というのをやった。16回卒の橋本嘉夫さんが大谷さんと親しかったから、桑原さん達と進藤さんやら浦部さんやらそれから坂本さんやら、天下の茶会にみんな集まろうと言うて行った。そして、橋本さんが15世千宗室のところに、代議士になりたての山下徳夫さんを連れて行って、千宗室から茶号を貰ったな。この茶会には福中同窓会の核となる人達が集まった。 1回卒の坂本新蔵さんが、この時から昭和32・3年頃まで、10年位幹事をやらっしゃった。この方は確か亡くなられたな。その後は加藤さんを会長に仰いだ。その頃は同窓会で年会費を取ってなかった。そのときそのときの会費取ったって、事務費が集まるわけないよ。そもそも会場費が足りなくなるんだから。だから、誰か出さなきゃ困るんだよ。進藤先生が自分のポケットから出さっしゃった。加藤さんの紹介で、帝劇の下にあった神戸大学の寮が安いちゅうて使ったりした。 東京同窓会の組織固まる(平成2年) A 進藤先生が引退されたのを機に、通常会費を取ろうと考えた。馬場さんに事務局をお願いして、組織を固めてやっていってもらおう。そのためには同窓会費を徴収しよう。総会の会費をいくらにしたら、どのくらいの人が集まるかどうか分からんばってん、とにかくやろう。 B やっぱり会費を取るようになって安定してきましたね。 A 会費を出した人は来るけん出席率がよくなる。会費を出した人は俺は会費出してるんだちゅうて、大きな顔して来らっしゃるからさ。 B 230人集まったんですね。第1回は。日本工業クラブでやりましたでしょう。 C そのとき235人集まりましたよ。事務局の記録を見てきました。 A 会費を出しちゃるけん。そこで縁がつながったんだよ。会費を取ったのがよかったんだよなー。それにしても馬場さんは大変だったなー。 B だけど、第1回の工業クラブは盛会だったね。 C 盛会でしたよ。ぎゅうぎゅう詰めでした。 B それ以前は80人とか90人位でしたかね。 A 90人ちゃ大成功よ。50人から70人位の間よ。進藤先生が来ないちゅうともう集まらんわけよ。みんな進藤先生の顔を見たいちゅうて来らっしゃるわけよ。 C 全員集合の写真がありましたよね。 B そうそう、写真を撮っていましたよね。あの頃は。 C 今は多くて撮れないですよ。 A 高校は殆ど来ないわけよ。あの頃は高校はもう。安くしてるんだけどな。半額位にしてるんだけど、来やしないんだよ。 D 連絡もなかったですよ。全然知らなかった。 A そのね、葉書代がまた大変なんだよ。下の方の高校には案内状も出さんわけよ。葉書代が無いわけだから。 先輩方に、東京福中・福高同窓会の草創の時期について、語っていただいた。興味ある人脈図やエピソードなど紹介したかったが、割愛せざるを得なかった。(文責・八久保) ・・・ 続きを読む
故加藤正君追悼記【東京あさぼらけ創刊号】
故加藤正君追悼記 岡村福男(中8) 大正13年春福中入学試験発表日を迎え、今も変らぬ校内に差し掛かった時、白線2本が輝いて見える真新しい校帽を被った童顔の残る少年に出会いました。新しい制帽は合格のしるしだなと瞬時に悟り、思はず発表場に向って走りました。 入学式が終り、指定された5組の教室の机に落ちつき、ふと前を見ると合格発表日に校門で出会った制帽の君で、小柄なういういしい加藤正君と判りました。更に驚いたことは春吉小学校5年生から飛び越し入学を果した俊才と判り、ういういしい少年の道理が判りました。 福中卒業まで私は加藤君と一緒の組でしたが、格別想い出に残る事はありませんが、ただいたずら坊やと申しますか、「わるそう」だったかも知れません。物理の奥川先生は足が悪いので、その歩き方を上手に真似て奥川先生の勘気にふれたようです。 加藤君の酒好きは有名なものですが、中学5年生のとき宮崎県青島に修学旅行に参りました。先生達とは別行動でしたから、旅館で日本酒を飲み、大淀川の橋の上でドイツ製金巻煙草「ゲルベゾルデ」を回しのみして大人の世界に一寸足を踏み入れた様な気分を味った時、加藤君は矢張りリーダーだった様です。 お互に社会人となって私は地方勤務が多く、東京在勤の彼と暫く接する機会はありませんでしたが、紐育勤務を終えて本社油槽船部長に就任して彼との接触は濃密になりました。何分とも出光興産加藤常務は有力なタンカー荷主の責任者であり、気易く学友気分で接する事は彼の廻りの人達の厳格な監視が許しません。それでもよく飲み屋に誘われたものです。 彼の飲み屋は銀座の日本式小料理屋で、ウイスキーの摘み物は「キンピラごぼう」と酢づけ「もづく」がお決まりの品で、注文なしでテーブルに並びます。既に此の時期に福岡県人会々長、福中福高会長を務め、多忙な社会人生活を送ってゐました。 社会人生活の中で最も精彩を放った事件は石油連盟脱退であります。昭和37年に石油業法が施行され原油の輸入が自由化されました。之は出光興産としては自由競争をして消費者に奉仕すると言ふ出光店主の強いテーゼがあり、偶々此の自由化の布告の折、加藤君は石油連盟の需給委員長を務めて居った為に生産調整、生産割当のとりまとめ役を仰せつかったとは申せ、自社のテーゼに反する事とて石油連盟を脱退する仕儀となり、世間は大騒ぎする事件に発展しました。私は終始タンカー運営に携わってゐましたので、出光興産は重要な荷主であり、加藤専務を疎かにする訳には参りませんが、非常に商売上手な方で難しい初ものの注文をよく買いました。例えばLPGタンカー、溶融硫黄船の如く日本にはまだ存在しない特殊船の注文でありますが、随分苦労して要望に答へる事が出来ました。之は日本に於ける第一船の光栄に浴す事が出来た訳です。従而晴ればれといつもの小料理屋で一パイやれた訳であります。功なり遂げて出光石油化学工業会社の社長を任命され社業の発展に絶大な貢献をなしとげ、又国家から高い勲位も叙されてゐます。 天命とは申せ一昨年12月17日84歳で此の世を去りました。御通知をいただき弔問に参りましたら柩の上にウイスキーボトルが供へてあり又水割コップが御線香台にお供へしてあり、終生の友は矢張りウイスキーであったかと感慨無量の気持になりました。 敬弔。 ・・・ 続きを読む
広報誌の発刊によせて【東京あさぼらけ創刊号】
広報誌の発刊によせて 会長代行 三野 定(中15) 待望久しかった東京福中・福高同窓会の広報誌が、広報委員会の皆さんのご努力でようやく創刊の運びになったのは、誠に嬉しい次第で、ご同慶の至りです。委員の皆さんのこれまでのご尽力に心から感謝し、拍手を贈ります。 東京を中心にした関東地区には、福岡周辺についで多数の同窓生がいます。私たちの母校は、昨年、創立80周年を迎えましたが、福岡での盛大な記念式典で深い感銘を覚え、さらに21世紀への発展を心に誓われた方も多いと思いますが、こうした感激を東京でも忘れぬようにしたいのが、東京同窓会の願いです。 故進藤一馬先生ご存命の間は、先生を囲んで同窓会が毎年催されていましたが、十分には組織されてはいませんでした。故加藤正前会長の下で有志の努力によって、組織を固め、会則を整えて、若々しい同窓会になったと思います。 同窓会員が、交流を深め、互いに励まし合い助け合って行くためのもっとも基本的な場は、会員が一堂に会する総会、消息をつなぐ会員名簿と広報誌であろうと考えます。この度、ようやく広報誌の誕生に漕ぎつけました。 本部同窓会では、福高通信「朝ぼらけ」という立派な広報誌が、既に72号の発行を重ね、年2回ながら母校と同窓生の消息を伝えて、無くてはならない存在になっていますが、当誌もわれわれ東京福中・福高同窓会員にとって、なくてはならないものにしたいものです。 広報誌の発行は一口にいっても、実はなかなか大変なようです。企画立案、原稿集め、編集をして印刷に回し、ゲラ刷り、校正と、広報委員会の皆さんの苦労が続くでしょう。せめて、原稿集めくらいは楽にしてやりたいものです。 この広報誌がわが東京同窓会と共に大きく育つことを心から念願し、そのための会員皆さんのご後援・ご協力をお願いして、創刊のご挨拶に致します。 ・・・ 続きを読む