平成13年度総会・懇親会報告 改めて母校のすばらしさを実感【東京あさぼらけ第4号】

川元茂(高28回) 今世紀最初の同窓会総会が開かれてから1年が過ぎようとしています。その当番代表幹事は高校8、18、28回でした。我々28回のメンバーは、卒後25年、母校とはほとんど縁のない生活をしていました(体育会系の人などは別かもしれませんが)。若い頃には自分の足場を確立することに懸命で、過去を振り返る余裕はありませんでした。しかし不惑を迎え、自分自身を客観化し、周りを見渡すことがようやく少しずつ出来るようになってきた頃、同じ時間、同じ場所で過ごした同級生たちと再会しました(しかし、多くはきちんと会話をしたのは初めて)。先輩方の母校に対する激しい愛着や強い郷愁の念に知らず知らずのうちに感化され、また毎月の打ち合わせの会合でお互いを知り合ううちに、高校時代とは違った新しい関係が生まれました。「母校のお陰だ」としみじみと感じさせられました。そんなことで一体感のようなものが醸成され、また先輩方との熱い議論の末、『福高グラフィティ』と『福高校歌』を柱にした平成13年度の企画が生まれました。『福高校歌』は、昭和42年の創立50周年を記念して、一昨年5月に逝去された母校の音楽教諭(当時)の江口保之先生が作曲され、国語科の先生方が合同で作詞されたものです。高校18回で二期会オペラ歌手の山口俊彦氏に歌唱指導をお願いしました。全員で合唱し、楽曲のすばらしさを体験するとともに先生方の当時のご苦労を偲びました。『福高グラフィティ』は、福高や福博の今を映像で伝える企画です。高校28回の写真家・鶴田幸介君の眼を通して見た母校や街並みの様子は、やはり高校28回でコピーライターの益岡由美さんの構成した脚本と音楽、そして高校18回の林田スマさん(元RKBアナウンサー、総合司会も担当)の柔らかなナレーションによって、懐かしくそして情感あふれるスライドショーになりました。スクリーンの向こうに、それぞれの「あの時、あの場所」を感じていただけたのではないでしょうか。 平成13年4月20日、恒例の会場、市ケ谷のアルカディア市ヶ谷会館には346名もの同窓生にご参加いただきました。総勢50人以上のスタッフを温かく見守ってくださった先輩方に心からお礼を申し上げます。最後に、平成14年度の同窓会総会の盛会を祈念しますとともに、これから続く後輩の皆さんにも、母校のすばらしさを実感できる機会に、ぜひ飛び込んでいただければと思います。同窓会の皆さん、どうもありがとうございました。 ・・・ 続きを読む

どんどん来んしゃい!同窓会総会は4月19日(金)です――懐かしい恩師の近況も紹介――【東京あさぼらけ第4号】

当番幹事 中村英樹(高29回) 同窓会の皆様が福中・福高で学ばれ青春を謳歌されていた頃、21世紀にどんな夢を抱いておられましたか。希望に満ちた近代的、平和な世界を夢見る方がほとんどではなかったでしょうか。実際に新世紀がスタートし早や1年がたちましたが、夢とは裏腹に深刻な経済構造不況、米国での多発テロ事件、さらなるアフガンへの報復攻撃、国内での狂牛病騒動など暗い出来事の続いた幕開けでした。そういう中、見事な演出と運営で大成功に終わった平成13年度の同窓会総会幹事の皆様から今年度総会の幹事役を受けることとなりました。引き継ぎに当たり、先輩方から一つのアドバイスを頂きました。「卒業して20年以上たった今、福高から大きな宿題をもろうたと思って頑張って下さい」と。その言葉を胸に昨年5月の初会合以来、高9回、高19回の先輩方と若い人の意見も取り入れたいと高39回の方の協力も頂きながら、私たち高29回生を含めた4代が当番幹事として準備を進めております。さて、そんな大きな宿題を抱えた私たちですが、その答えを求めて各自の思いが飛び交う中、世代の垣根を取り払った意見を交換し、「参加者に懐かしい思い出を提供する会にしたい」というコンセプトが6月の末に決まりました。それから各自が当時の生徒に戻った気分で心に残る思い出、若い気持ちが燃えたぎった出来事などを語り合ったところ、長年教鞭を執られた名物先生の印象の大きさと、学校全体が一つになり青春の血を熱くした体育祭の素晴らしさを、総会の場で表現したいという気持ちがみんなの意見としてまとまりました。取材は、高29回で現福高教諭の栗田氏に同期のよしみで大いに甘えつつ続けておりました。今年の同窓会総会では昨年開催された「21世紀最初の福高体育祭」をご紹介いたします。これからを担う若人の活躍ぶりをご覧になり、エネルギーをもらいましょう。当時の気分を取り戻していただき、いつも青春である喜びを分かち合おうではありませんか。現在の学舎やその周辺の移ろいもスライドで紹介しますので、友人との語らいやお酒の肴に一役買うものと思います。皆様が学生気分に戻った頃、長きにわたってご活躍されてきた我らが恩師の現在の様子を紹介する予定です。当時、一緒に笑い、悩み、そしていろいろと教えて頂いた先生に久しぶりに恐れ入る気分を味わえるかもしれません。福中・福高同窓会のみなさん、待っとうけん遠慮せんでどんどん来んしゃい。 ・・・ 続きを読む

母校の不思議!?発見 演劇部奥“秘密の部屋”のナゾ解き!【東京あさぼらけ第4号】

長谷川法世(高16回) 以前、「週刊文春」に高26回卒の芥川賞作家・藤原智美君が、演劇部奥の奇妙な空間と装置について一文を寄せていた。玄関を入って右の階段を上がり詰めた踊り場が演劇部室で、藤原君はその部室の奥にドアがあって、「そこを開けると巨大なダクトが床から壁に抜けるように通っている二畳があらわれた」と書く。そして、空調室なら計器類があるだろうに何もなく、校舎にはそんなダクトを必要とする空調設備などなかった。別の機能を持っているのかとも考えられるが、一度もそいつは音を立てたことがなく、管理のために人が訪れたこともなかった、と続けている。その奇妙な装置と場所について彼が長く抱いていた謎を、僕があっけなく解いてみせるのにはためらいがある。しかし、「東京あさぼらけ」の編集子は、謎は解いてあげなきゃあ、とこともなげに原稿を押しつけるのだった。 昭和36年度の僕ら16回生の入学式で長敏一郎校長が概略次のようにいわれた。「諸君は幸運です。板付基地の騒音が問題になっていますが、我が校は君たちの先輩が長く寄付を積み立てたお陰で、防音窓と換気装置が完成し、本年度から使用できることになりました。諸君は寄付なしで、気持ちよく勉学に励むことができるわけです」福岡での新生活が始まった。気温が上がって換気装置の本番というころ、担任の森先生がこういわれた。「今日から天気の悪い日以外は窓を開けるように。実は、換気装置を動かしてみたら、1カ月で当校の1年分の電気代を使うことが分かりまして。以後換気装置は使えないということになったわけでして……」藤原君の謎の正体はこんなものなのだ。さらに付け加えると、僕はその不思議な部屋に侵入した最初の福高生のはずだ。僕は美術部員で、美術準備室の隣が地学部室だった。僕らの卒業後、地学部は部員がいなくなって廃部となったのは風の便りに聞いた。その後、演劇部室となったのを藤原君の一文で知った。地学部にはしょっちゅう遊びに行った。部長はおとなしい性格だった。僕ら美術部員が屋上で騒いでいるのを校門の辺りから見上げた先生に見つかって、地学部室に逃げ込み、駆け上がってきた先生に、地学部は1カ月閉鎖する、と宣言されてもひとことも反論せず指示に従った。そういう次第で地学部は、デッサンに疲れた美術部員と、それから九大受験組がいつも将棋ばかり打つ休憩所となった。3年の体育祭が終わったころだったと思う。問題の両開きの扉を、「これはなんのドアや?」と、みんながだんだん気にするようになってきた。そこで、何人かで交代で針金やら釘やらで「黄金の七人」よろしく鍵開けにとりかかったのだった。確か2日がかりで開いたと思う。そこには脱穀機のような機械があり、はじめ何かはわからなかった。藤原君と同じくみんな狐につままれたようだった。すぐに換気装置だといったのは僕だ。校長の話を思い出したのだった。だが、換気装置といっても誰も納得しなかった。しかし僕はしっかり記憶していた。それには理由がある。先輩たちが払ってくれた寄付を積み立てたお陰で換気装置が完成した、と校長はいわれた。その先輩達の中には僕の兄姉が含まれていたのだ。僕は4人兄弟の末っ子で、全員が奇跡的に福高に合格した。だから上の3人は在学中、授業料といっしょに寄付を払っていたのだ。家計の苦しかったわが家では、末っ子の僕が何かをねだると、「兄ちゃんたちの寄付がかかるもんやけんねぇ……」というのが、母のいいわけになっていた。そんなわけで、僕はわずか1カ月余りしか稼働しなかった換気装置のことを、しっかり記憶に残していたのだった。僕の小遣いを無駄遣いしたこの機械を僕は、二度足でごついたと思う。その秘密の部屋は、蝶番の芯棒が外れるように細工して何度もさぼり場所にしたが、地学部や美術部自体が隠れ場所だったので、それさえ用なしになったというお粗末だった。 ・・・ 続きを読む

富士の麓の不思議なご縁の同窓会【東京あさぼらけ第4号】

柴藤勝也(高38回) 不思議なご縁があるものです。私は現在、(社)日本建設機械協会・建設機械化研究所に出向しています。我が職員66名と出向者11名の総勢77名中、福高卒業生が4名も在籍しているという、確率的にはなかなか珍しい状況となりました。こちらへ来て、「飲まないかんばい」と4人で同窓会をしました。建設機械化研究所は、日本建設機械化協会の付属機関として昭和39年に設立。発足以来、「自らの頭で考え、自らの足で調査し、自らの手で試験する」をモットーに全員が日本全国の現場を飛び回っています。研究所は静岡県富士市にあり、建設機械の走行コース、構造物の疲労試験機など、多様な施設を擁しています。写真中央は中島英輔先輩(高10回)。建設省に30年勤務後、平成5年に当研究所に再就職、現在は所長です。写真左は江本平先輩(高21回)。建設省からJICAを経て昨年こちらに出向し、建設機械の開発業務の受託に取り組んでおられます。上中央は松尾和己先輩(高31回)。やはり建設省から昨年来られ、河川や軟弱地盤の改良に関する仕事を担当。「循環型社会の実現に貢献したい」とファイトを燃やしています。そして残る写真右が柴藤です。間組に入社、平成13年にこちらに出向し、トンネルの施工計画やコンクリート構造物に関する調査・検討を担当しています。この不思議なご縁を大切に、今後もこのような会を設け、ざっくばらんな話を大いにしたいと思っています。 ・・・ 続きを読む

夢追い続けて「打率4割」を達成!【東京あさぼらけ第4号】

池田修治(高37回) 福高の3年間、私の中では野球部での「不完全燃焼」が今でも心に残り、また現在の私のエネルギー源になっています。当時は、ラグビー名門の福高において数少ない、野球部が輝いていた時代でした。入学し、すぐに野球部に入部した私の目には、当時の先輩方はとても大きく映り、また同学年のメンバーも体の大きい者が多く、やっていけるか心配でした。その後チームは力をつけ、私が2年生の時(昭和58年)には、「あと1勝で甲子園」というところまでいきました。しかし、私はバッティングに難があり、3年生でもレギュラーにはなれず、せめて試合に直接かかわりたいとの思いから3塁コーチャーをさせてもらうなどして最後の夏が終わりました。3年間、野球をやり終えたものの、正直言って「達成感」は得られませんでした。それで、うまくもないのに大学でも野球部に入りました。同学年のメンバーは実力者揃いだったが、大学では誰も本格的な野球を続けていなかったようです。私は大学ではレギュラーになり、常時試合に出たものの、やはり貧打は克服できず、リーグ戦の打率は1割台を抜け出すことなく、そのまま4年間が終わったのです。それから、あっという間に10年以上が経過した3年前の秋、仕事に余裕ができた時期があり、衰える一方の筋力のことは顧みず、高校時代、いや、もっと前から思っていた「打てるようになりたい」との思いが強くなり、地元の草野球チームに入団。毎週日曜日、自分より5〜10歳若い連中と一緒にプレーするようになったのです。チームには元甲子園球児やノンプロ経験者もいてレベルは高いが、昨年はレギュラーで打率4割を達成したのです(しかし、1年に2回も肩を脱臼してしまったけれど)。今、野球を続けていることが生活に張りを与え、仕事にも家庭にもいい影響を与えています。高校時代に野球で「燃え尽きなかった」ことが、良かったのかもしれません。 ・・・ 続きを読む

天文歴60年、しし座流星群を見ずに寝て「シマッタ!」【東京あさぼらけ第4号】

西山峰雄(中学21回) 2001年11月20日未明、しし座流星群が乱れ飛んだのを覚えている方も多いでしょう。一方向を見ていただけでも1分間に2300個、1分平均に40個、時には1秒20個以上も飛びました。全天を見ていたら5000個以上カウントされたといいます。日本でこんな大出現は過去の記録になく、世界でもここ300年で数回だけです。私は横浜市戸塚区の自宅そばの小雀公園で午前1時半から空が白むまで写真撮影と計算観測をする予定で待機したのですが、あいにくの雲。あきらめて3時半に寝たら、その直後の4時頃から晴れて横浜の空でも600個くらい見えたというのです。残念至極!でした。天文現象はただ1回しか起こらない、その時どんなに曇っていても最後まで頑張らなければいけないというのが鉄則です。今回はこの鉄則を、昭和17年に日本天文学会に入って60年の私が破ってしまったのです。風邪をひいていたので、このへんでと思ったのが間違いでした。重ねて残念至極。しかし、実は風邪のせいばかりでなく、喜寿を超えた私の目が、空を眺めても、特に流れ星のように流れる光が見えにくくなったこともあるのです。そこで、10年前からは実際の星空よりも、天文の歴史、古星図などの資料集めと研究に力を入れています。日本に限らず、ビルマやカンボジア、タイ、インド、中国などの星座・星図を調べたり、資料集めをしています。最近も和紙に描かれた81×3.14四方もある江戸時代の、朝野北水作の巨大星図の研究・保存のための模写に取り組んでいます。そうした合間には、世界各地に「日食観測遠征」に出かけています。1987年9月の中国海南島、88年3月のスマトラ島、91年7月のメキシコに続き、99年8月にはイラン・イスファハンに皆既日食を見に行きました。写真はその時のもので、右から2人目が西山さん、イスラムの女性もチャドルを少し上げての記念撮影です。私がこんなに天文好きになったのは福中時代のこと。夏休みにやった太陽の黒点の継続観測で物理の井山先生に一等賞をもらったことで拍車がかかりました。以来、会社時代には「日食を見に行くなら、会社を辞めていけ」と言われたり、妻に「給料をもらっていたのが不思議なくらいですね」と冷やかされたりしながら、長くて楽しい天文との付き合いが続いています。最後にもう一つ。私がたくさん軌道計算をしたので、小惑星6745番に「西山」の名前をつけていただいています。 ・・・ 続きを読む

卒業40年の今年、青春時代に戻って「ワイワイ楽しく」を企画【東京あさぼらけ第4号】

野田宏(高14回) 昨年の関東地区の寿士会は、11月9日(金)の夜、代々木クラブ(新日鉄研修センター)で開きました。年に1回の開催でいつもは20名近く集まるのですが、今回は9名(男性6・女性3)と少々さびしい集いとなりました。しかし、少人数ではあったものの、ビジネスマン、大学教授から主婦までそれぞれの立場からいろんな話題が出て、楽しくかつ充実した時を過ごすことができました。特に、9月にあった福岡の寿士会に参加して関東にもあるのを知って初めて参加した西克之さんが、話の中心になって、海外(ドイツ、アメリカ)で駐在した時の経験談は興味深いものでした。また、今の大学が抱える諸問題についての上原政治さんの話はビジネスの世界では聞けない内容であり、大学改革には一般企業の評価システムを導入すべきといったところまで話が発展し、大いに盛り上がりました。ところで、21世紀になったというのに日本の景気は低迷を続け、デフレスパイラルや失業問題で閉塞感がただよい、私たちが社会人となった昭和40年代前半とは全くの様変わりです。あの頃は明るい未来があり、高度成長時代に向けて共に築きあげようという若さと活力にあふれた時代でした。今この事態を打破し日本経済再生のためには、構造改革を一日も早く成功させ、日本全体が元気を取り戻してほしいものです。私たちもまだ老けこまずに、社会に貢献できるように、もうひと踏ん張り頑張らねばと思います。今年は、昭和30年に福高を卒業してちょうど40年の節目に当たります。同窓会をさらに活発にしていくためにも、福岡寿士会と共同でイベントを企画しようとの話もあります。今年は青春時代に戻って、ワイワイ楽しくしたいので、一人でも多くの仲間が参加するよう心より願っています。また、この同窓会が、私たちの多くが間もなく迎えることになる定年後の人生をより充実したものにするための一助になればと願っています。 ・・・ 続きを読む

老舗料亭「女将」奮闘記【東京あさぼらけ第4号】

初めはパニックの連続今は感謝の日々三田啓子(高22回) 体育・文化祭・クラブ活動などに汗を流し、楽しく過ごしていたことが昨日のように思い出されます。卒業後、短大時代の教授から紹介されたご縁で日本橋人形町の料亭へ嫁ぐことになりました。今思えば本当に不思議な気がします。料亭「濱田家」は、大正元年の創業で今年90周年を迎え、東京では老舗に入るお店です。もともとは江戸時代からあった芸者置屋「濱田家」との縁続きで、その時代、伊藤博文をはじめ明治維新のそうそうたる元勲たちも客として名を連ねていました。料亭の世界とは何の縁もない私が、そんな古いお宿へ右も左もわからないまま、若女将として入りました。子供の頃から日本舞踊、茶道、お花など日本古来の習い事も好きでしたが、江戸時代から続く花柳界「葭町(よしちょう)」は、私にとって別世界でした。見るもの聞くものが初めてのことばかりで、芸者衆を集めての若女将披露の時は、それは艶やかな世界に嫁いできたのだと実感しました。初めはお座敷へ長く座っていられず、どうやってお客様のいらっしゃる部屋から出たらよいかと考えるだけでパニックになっていた日々の連続。子育てをしながら夜はお店のお勤めでした。よくやってこれたと自分ながら感心しています。これもひとえに家族の支え、お客様からの励ましのお陰と思いますが、私自身にも接客業が生来合っていたのではないかという気がします。それに、短大卒業後、日本航空へ入社し、3年間の接客の仕事を通じて学んだことが大変役に立ちました。政財界をはじめ、色々な分野のお客様をお迎えし、満足していただけるように配慮することは大いに励まされたり、教えをいただいたりで、自分も成長してきたように思います。お客様の中には福岡出身の方や福高の先輩方もいらして驚くやら、お喜びになられるやらで、私が福岡出身というだけで結構話が盛り上がる時もありました。本当に周りの方に支えられ、今日の自分があることに感謝して日々を過ごしています。それから20年が過ぎ、時代の流れとともに料亭の数も少なくなり、だんだん寂しくなってきました。国際化が進む今、こういう日本文化の継承も大切なことと思い、これからもいろんなことにチャレンジし頑張っていきたいと思っています。 ・・・ 続きを読む

“包装紙”は変わったけれど胸の奥に生きる福高カラー【東京あさぼらけ第4号】

林田スマ(高18回・在福岡) 「前略 懐かしいものが出て来ましたので一部お送り致します。草々」 同級生の押渕英尚さんから届いた封筒の中には、なんと38年前の『福高』号外のコピーが入っていた。昭和38年3月20日発行の福岡高等学校号外には入学合格者3名の名前が並んでいる。その名簿は一気に私の心を昔へと引き戻してくれていた。目の前に並ぶ懐かしい友人たちの名前、胸をワクワクさせながらまず自分を探す。あった!・・・ 続きを読む

妻と愛猫を伴ってスペイン生活1年記【東京あさぼらけ第4号】

海外生活、やって見るもんだ!!財産となる仲間がいっぱい松島成企(高7回) もう5年前になる。60歳の定年を自ら決め、とりあえずはスペイン語の勉強をと、家内と愛猫を伴ってバルセロナ郊外に5年契約で住まいを借りた。5年ともなると、ただ単に生活するというだけでは芸がない。現地で何かお役に立つことが何かないかと考えた。幸い数年前から日本語教師の勉強をしていたので、それが役に立てばと考えていた。ちょうどその時、バルセロナ郊外の小さな街カネット・デ・マールに日本センターがあることを知った。どんな活動をどの程度しているのかという詳しい情報はなかったが、少なくとも日本センターと名がつく以上、何かお手伝いすることがあるだろうと漠然と考えていた。日本センターのメンバーの中に彫刻家の外尾悦郎氏(高25回)の名前を発見したのは、それからしばらくしてからである。外尾氏がサグラダ・ファミリア教会で仕事をされているのは先の「朝ぼらけ」の記事で知っていた。日本センターのこともカネット・デ・マールの住宅事情のことも、外尾氏に聞くのが早道と、失礼を承知でコンタクトを取った。外尾氏は快く応じてくださった。本当に親切な方である。家探しを目的にバルセロナに出掛けた1週間の中に、お会いすることができた。そして、不動産屋を紹介していただき、日本センターにも案内されて、その活動状況も説明していただいた。それから約1カ月後、長い砂浜に面した5階建てのピソ(日本流に言えばマンション)の4階に居を構えた。広さ約120平方メートル、4ベッドルームに広い居間とキッチン付きである。浴室も2つ付いている。家賃は月約4万円。広いベランダからは180度地中海を望め、毎朝左右20度の水平線から太陽が昇る。かねてより「一度は海の見える白い家に住みたい」と思っていたものが、白い家ではないが地中海という思いがけない形で実現したわけである。しかし、「住む」という現実はかなり厳しいものがあった。その一番は買い物である。東京にいた時は週に1度まとめ買いして車で運んだ。町外れにあるピソから市場やスーパーまでは歩いて20分程度かかる。果物がなくては生きていけない妻にとっては、かなり重い荷物になってしまう。私の背中のリュックが頼りで、月曜日から金曜日まで週5日スペイン語学校へ通う学生親父の土曜日の仕事である。土曜日は暇なので日本センターのお手伝いも、と考えていたのも甘かった。第一、日本センターは何も活動していなかった。外尾氏によれば、もともと市長さんが日本企業の誘致になれば街の活性化につながると安易に考えて始まったことで、十分な戦略と準備があったわけではなかったそうである。それに加え、バルセロナを拠点にヨーロッパ一人旅しか楽しみのない妻には、それ以上カネットに暮らす意義は見いだせなかった。そして、10カ月を過ぎる頃から「もう幾つ寝ると帰れるか」と冗談交じりに歌うようになった。5年の計画を1年で切り上げたのであるから、挫折といえば挫折かもしれない。しかし、1年間スペイン語を勉強し、帰国後も細々とそれを続けているお陰で、インターネットを通じて老若男女たくさんのスペイン語仲間ができ、それが今では大きな財産だと思っている。(ホームページにエッセイを載せています)http://www3.justnet.ne.jp/~shigeki_matsushima/ ・・・ 続きを読む

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