同窓会ゴルフ愛好会「福友会」から 若手諸君、ぜひとも参加を!【東京あさぼらけ第4号】

福友会ビギナー 世利卓郎(高3回) 諸先輩の話によると、今からちょうど6年前、同窓会諸氏の絆を強めるとともに皆の健康と親睦を兼ねてゴルフをやってはと、この会は発足した由。とりあえず発起人(高4回生)の音頭で名前を「福友会」とし、開催は年1回では物足りないので2回にしようということになり、毎年5月、11月の開催となった旨聞きました。それから今日まで回を重ねるごとに参加者は徐々に増え、また女性の参加もあって、現在では5〜6組のコンペが開催されるようになり、ゴルフを楽しむ人たちには親睦を深める良い会に成長してきています。 2年程前に東京福中・福高同窓会より「会長杯」として立派なカップをいただき、これもまた皆の励みとなっています。会場についてはその都度、幹事が決めることとなっていますが、現在のところ交通の便などを勘案して13回の今日まで立川国際カントリー倶楽部を使用しています。その第13回福友会ゴルフコンペが平成13年11月15日、好天に恵まれて開催されました。5月のコンペでは高2回の案浦博氏が、そして今回も高2回の師岡一夫氏が優勝と、参加者の中でも最も高齢者に2回連続して名を成さしめています。先輩の皆さんは、元気だし若々しくはつらつとプレーされています。若手諸君、ぜひこの福友会に参加し、優勝カップを先輩の手より取り戻そうではありませんか。また、東京福中・福高同窓会で、ゴルフのみならず囲碁・将棋・釣り・麻雀等々趣味を持つ方々が集い、それぞれに会を結成し親睦を深めるようになればと思います。※「福友会」への参加申し込みや問い合わせは、世利卓郎さんまで。 ・・・ 続きを読む

「福中・福高同窓会とペシャワール会」ますます必要とされる中村哲さんの働きをしっかりサポートしていこう【東京あさぼらけ第4号】

乃美吉江(高8回・在福岡) 福岡在住の乃美吉江さん(高8回)から、パキスタン、アフガニスタンで医療活動や井戸掘り、食料支援活動を続けている中村哲さん(高17回)とペシャワール会の取り組みへの理解と支持を訴えるお便りをいただきましたのでご紹介します。 「同窓会が率先しなければ」の思いで 平成3年の春、西日本新聞の記事で中村哲さんのことを知った時の感動は、今でもはっきりと思い出すことができます。アフガニスタンとパキスタンの国境北西辺境州において、難民のための医療活動を7年間も続けている福岡出身の医師がいるという記事でした。後日、中村医師を支えているペシャワール会の存在と、彼が福高出身であると知った時、大変不思議な気がしました。それまで、私が知る範囲の同窓生の中で、中村さんたちの取り組みが一度も話題にならなかったからです。このようなことこそ、同窓生が率先して支援しなければならないのではないかと思いました。しかし、かと言って私一人で立ち上がり皆さんに呼び掛けるほどの勇気もなく、忸怩たる思いを抱きつつ数カ月が過ぎました。ちょうどその頃、平成3年5月発行の前期「朝ぼらけ」紙上に初めて「ペシャワール便り」として中村さんの文章が掲載されました。これが私の気持ちを一歩前進させてくれました。ペシャワール会とはどのようなものか、自分で確かめたいと思い大名町にある事務所を訪ねました。やはり想像どおり同窓生は少なく、10数名の事務局ボランティアの中にただ1人、25回の藤野洋子さんがいただけでした。 支援者(会員)は全国に1500名ほどでしたので、その中には同窓生もいらっしゃったかもしれませんが……。 「勝手にしえん会」など広がる同窓生のサポート あれから10年、個人会員は4000人余りになり、その1割ほどが同窓生という現状です。毎年6月の福中・福高同窓会総会では、「勝手にしえん会」(高11回)の方々を中心に募金活動が行われるのが恒例となりました。「待っとったバイ!」「頑張ってください!」と激励の言葉とともに数分で募金箱はいっぱいになります。高校3回の声楽家、山本健二先輩のお申し出で盛大なチャリティコンサートが開催できたことなど、さまざまな形での同窓生の支援は、この10年間枚挙にいとまがありません。これも「朝ぼらけ」編集長の今津勝行先輩(中25回)が、ペシャワール会へずっと変わらぬ熱い心を持ち続け、毎号、会のために1ページを割く努力をして下さっているお陰だと思っています。ペシャワール会理事として高17回の白石正彦さん、西川ともえさんががっちり支えて下さり、実働ボランティアとしては、前述の藤野さんに加え小宮康子さん(8回)、浜田孝文君(50回)と随分賑やかになりました。 あの空爆の最中も休むことなく活動 とはいえ、一般にはまだまだ福岡市内でも知る人の少ないささやかな会でした。あの事件が発生するまでは……。全国の人々からの問い合わせ、マスコミの取材、さまざまな団体からの講演依頼と鳴り止まなかった事務局の電話も、さすがに12月に入ると落ち着いてきました。 信じられないことかもしれませんが、激しい空爆の中もペシャワールの病院はもちろんのこと、アフガニスタンの診療所は休むことなく医療活動と食糧援助を続けていました。これもひとえに現地を熟知する中村さんの冷静沈着な判断と決断力、卓越した行動力によるものです。現地からの情報は、未曾有の旱魃と、それに伴う飢餓でポリオ、結核、マラリア、赤痢などの疫病が蔓延し、不安定な世情の中で精神疾患患者も多数発生していることを伝えています。ますます必要とされる中村さんの働きを、私たちはしっかりサポートしていかねばとも思います。どうぞ皆様も、今までにも増してご支援くださいますようお願いいたします。経過報告のみに終わりましたが、なぜ多くの人が18年もの間、中村哲さんを支えることが出来たのか、その答えは中村さんの次の著書の中にあります。一読をお勧めします。 ▼『アフガニスタンの診療所から』1100円▼『ペシャワールにて』1800円▼『ダラエ・ヌールへの道』2000円▼『医療は国境を越えて』2000円▼『医者、井戸を掘る』1800円▲丸山直樹著『ドクター・サーブ―中村哲の15年』送料1冊につき350円。 本についてのお問い合わせは・・・ 続きを読む

三野会長を偲ぶ 高潔な“道づくりの達人”でした【東京あさぼらけ第4号】

副会長 馬場一廣(高3回) 当会、三野定会長は去る11月29日、肺ガンのため83歳で逝去されました。慎んでご冥福をお祈り申し上げますとともに、三野会長を偲びつつ、東京福中・福高同窓会の更なる飛躍と発展を願わずにはいられません。 三野会長は福中から旧制福高、九大と進まれ、建設省で道路建設の専門家、責任者として活躍。近畿地方建設局長を最後に退官、東日本道路公団理事・技師長、さらに住友建設会長を経て相談役をされていました。 その三野会長を語るとき、「道づくり」という言葉が真っ先に頭に浮かびます。一つは国内外での実際の道路建設であり、もう一面は業界団体をはじめ県人会や同窓会など組織・団体の道(目的・目標)づくりの優れたリーダー、道しるべ役としての活躍です。 アジア、アフリカ、中近東各国の発展を願って現地で道路建設を指導されたときの熱い想いは、住友建設時代に書かれた2冊の著書『海の彼方の道づくり』『続・海の彼方の道づくり』を通して知ることができます。かつて、竹下登元首相が三野会長に「君はヨコメシができるそうですね」といったというエピソードも聞きました。道路建設と同時に、もう一つの道づくりを堪能な英語で語りかけていたのだと思います。 会長のこうした活動は世界的にも高く評価され、1991年にはIRF(国際道路連盟)の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたほどです。 また、会長はご多忙のなか、同窓会役員会にも積極的に出席され、私たちに高い識見からお話しされていたのが強く印象に残っています。1月23日にホテル・オークラで開かれた住友建設の「お別れの会」でも、さまざまな分野の皆さんが三野会長の人柄と思い出を懐かしんでいましたが、老若男女を問わず親しくされ、そして尊敬されていた実に幅広い人格と高潔なお人柄の持ち主でした。 そうした人生の達人だからこそ、多士済々の私たち同窓会の会長として抜群のまとめ役ぶりを発揮されたのだと思います。 同窓会活動について三野会長は、21世紀を迎えた昨年の本紙の会長あいさつで「何かを共有する者が集まって語らい、語らいの中に自ら生きがいを見つけ、互いに励ましあう、それが同窓会です」と書かれ、最後に「新しい世紀に『何を期待するか』というよりも、『何をするか』と考えるべきかもしれません。本年が皆さんにとって、佳い世紀のスタートの年になることを祈っています」と結んでおられます。 福中時代、剣道で鍛えた三野会長の凛としたお姿に会うことも、もう叶いませんが、私たち全員、その道づくりの心と道しるべを引き継ぎ、努力して参ります。どうぞ、やすらかにおやすみください。 ・・・ 続きを読む

《活躍する同窓の仲間たち》“神の手”を持つ移植医療の先導者と国際的オペラ歌手【東京あさぼらけ第4号】

同級生同士、青春の夢実らせる!高校18回の藤堂省さんと山口俊彦さん 今回は、福高在学時代から共に切磋琢磨を続け、それぞれの夢を実らせている仲良し同級生を紹介します。高校18回(昭和41年卒)の“神の手”を持つ移植医療の先導者といわれる北海道大学医学部第一外科教授、藤堂省さんと、心に響く重厚なバスの歌声と幅広いレパートリーを持ち国内外を舞台に活躍しているオペラ歌手の山口俊彦さんです。 早朝5時に登校してピアノ練習 高校3年間ずっと同級だった2人をとりわけ結びつけたのは早朝の教室での出会い。「家にピアノがなかったので、学校に午前5時ごろ登校して授業が始まるまで音楽室でピアノの練習をさせてもらっていた」山口さんと、始業の1時間前には教室の掃除をして勉強していた藤堂さんは、お互いを意識し、将来を語り合うようになったのです。 進路を意識する2年生の後半ごろは、藤堂さんによると「山口君の方が医者になりたいと言っていたように思う。僕は中学(和白中)で文芸部だったこともあって、新聞記者や弁護士、政治家に関心があった」とか。 それが、3年生になると山口さんは「オレしか歌えない声で歌いたい」と東京芸大を目指すことを決め、藤堂さんは「人助け、人の命を救う仕事をしたい」と九大医学部に志望を定めたのでした。 その時の2人が交わした言葉が「歌と医学と道は違うけど、将来2人でドイツに行って同じ下宿で勉強しよう」。 末期患者との出会いが進路を決める その後、藤堂さんは九大第1外科にいた25歳の時、医師としての進路を決定づける患者と出会うことになります。藤堂さんが医師として最初の死亡診断書を書くことになったその患者は、末期の肝不全。間もなく32歳の若さで逝った患者の妻は、初めての出産を控えていて、夫の死に半狂乱になりながら、「どうして主人を助けられなかったの」と藤堂さんに訴えたのです。 当時まだ肝臓外科が今のように発達していなかっただけに、「いつかこういった重症の患者さんを助けられる外科医になろう」と、臓器移植を始め世界の先端医療をリードするアメリカへの留学を決意したのでした。 そして、36歳で渡米するまで、医学はもちろん、米軍基地に出掛けては英語の実践勉強を積むなど“その日”に備え、84年1月、世界初の肝臓移植手術を手がけたスターツル博士のいるピッツバーグ大学外科の客員研究員になったのです。 遅れた日本の移植医療の道を切り開こうと帰国 藤堂さんはすぐに頭角を現し、手術の腕はスターツル博士が「難しい手術はトードーにやってもらえ」と語ったというほど。 94年には同大の教授となり、97年に北大に迎えられるまでの在米12年間に執刀した肝臓移植は優に1000例を超えています。 先端医療の中心アメリカにあって世界の移植医療をリードしてきた藤堂さんが、移植医療では「途上国」といわれる日本に戻ったのは、胆道閉鎖症の子どもを持つ日本の母親から届いた、日本国内では移植手術を受けられないことを訴える一通の手紙でした。 実際、日本からの留学生を預かっても、帰国した彼らが移植手術を待望している患者のために腕を振るう機会がないという状況が続いており、日本の移植医療のこの困難な道を切り開くのは自分しかいないと決断したのです。 その藤堂さんが先導者となって、日本の移植医療は、ようやく動き出したのです。「進取の気性に富む北海道で欧米に負けない医療システムと若い外科医を育てたい」と、福高ではバレーボール、九大ではラグビーで鍛えた体で、さらなる挑戦を続ける藤堂さんです。 晩学の苦難を克服し歌声は輝く 一方、小・中学(箱崎中)と剣道少年だった山口さんは自ら「僕は晩学」と語るように、歌との出会いは福高に入ってから。同級生の溝上哲思さんに「コーラス部に入りたいけど女子ばかりなので、ついて来てくれ」と頼まれたのがきっかけでした。 その時、3年生の先輩、小野塚満郎さんに「お前、良い声してるよ」と言われ、生まれて初めての“ハモる”経験にすっかり魅了され、歌漬け、ピアノ漬けの高校生活が始まったのです。 当時、コーラス部の顧問は一昨年亡くなられた江口保之先生。その江口先生を通して、先輩で音楽界で活躍中だった吉岡巌さんから「声楽をやってみる気はないか。2、3年自分の所で勉強すれば芸大に入れるかもしれない」と言われ、山口さんの心は固まったといいます。高校3年の夏休みのことでした。 以来、芸大受験に向けての浪人生活では、ピアノとソルフェージュが弾けない、採れない、歌えないなど晩学ゆえの「苦難の連続」(ご本人の弁)。芸大では大学院に不合格になった経験も。 しかし、文化庁オペラ研修所第1期生、文化庁在外研修員として4年間のイタリア留学といったチャンスをたゆみない努力で手にした山口さんは、着実に「自分しかできない、自分だけに与えられた自分の存在、その責任の重さと輝き」(山口さん自身の表現)を身につけていきました。30代初めには、イタリア・パルマのオペラコンクールなど国際的なコンクールに次々と入賞し、83年からは西ドイツ(当時)カイザースラウテルン市ファルツ州立劇場の専属歌手として2年間契約するなど活躍の場を広げていきました。93キロの体と晩学の苦難を克服したからこその歌声は高い評価を受けています。 85年、帰国後も97年の新国立劇場柿落とし、エディンバラ国際フェスティバル・オープニング公演では、めったに褒めない新聞評論で高い評価を得た山口さん。演じる力はもちろんですが、オペラ界への情熱の深さは並大抵ではありません。 オペラに対する理解のまだ浅い日本で、もっとみんなが簡単にオペラを見られるようにしたい、オペラを根づかせたいと、自宅のある大田区で「大田区民オペラ協議会」を立ちあげ、この10年来、市民レベルからのオペラ振興に取り組んでいます。 今年の公演は、10月19、20日、大田区民ホールでヴェルディ作曲『ナブッコ』。連絡先は、03-3757-3965の山口さんまで。 “神の手”を持つと尊敬を集める医師・医学者と、国際的に活躍するだけでなく、同窓会総会や母校を訪ね親しみあふれる歌唱指導や公演もするオペラ歌手――その2人を育んだ母校の教室での青春の日々。人生の出会いの妙を“演出”した母校への想いを新たにさせられる2人のエピソードです。 蛇足ながら、2人のドイツでの下宿生活の夢は実現しませんでしたが、10数年前、イタリア・ミラノでの楽しい家族ぐるみでの再会を果たしたそうです。 ・・・ 続きを読む

◇◇編集後記◇◇【東京あさぼらけ第3号】

◆9月中旬、まだ残る暑さに参っている私に「東京あさぼらけ」を手伝ってと、高16回の斎藤さんから電話が入る。何でも編集作業をしている高15回の原口さんの事務所から近いので、専業主婦で時間がいくらでもあるだろうということで白羽の矢が立ったみたい。◆出来るか心配しながらも、「母校のために」と引き受ける。高14回の福士さん、高15回の加藤さんたち先輩の慣れた、そして熱心な仕事ぶりに、初めの心配は杞憂に終わる。それにしても新聞づくりは本当に大変。何げなく読んでは制作者に悪いと認識した次第。◆同窓の方たちの活躍ぶりもどうでしょう!・・・ 続きを読む

12年度総会は402人の大記録 新世紀初の集いの成功を【東京あさぼらけ第3号】

大屋龍二(高27回) 昨年4月28日夜、東京市ヶ谷。平成12年度東京福中・福高同窓会懇親会の興奮度は最高潮を迎えようとしていました。ほとんど身動きがとれない「アルカディア市ヶ谷・富士の間」の会場。福岡から、この日のためにわざわざ駆けつけてくださった門田久人先生のご発声で乾杯、懇親会がスタートしました。当番幹事である高校7・17・27回生が人・人・人の隙間を忙しく走り回ります。治さんがエネルギッシュに演じてくださいました。来賓の福高・野見山義隆校長との掛け合いによる母校のスライド上映は、大好評でした。中でも会場を興奮のるつぼにしたのは、福高応援歌の大合唱。会場を揺るがすパワーでした。閉会の辞でステージに上がった内田先輩が声を大にして語りました。「昨年の総会が終わってから、担当当番幹事が毎月一回集まり、今日の企画と運営案を練ってきました。中でも27回生の意気込みは尋常ではありませんでした。毎月の会合に20人以上参加するんです」。総会と懇親会の準備は、平成11年の総会直後の6月から始まりました。テーマは「世代を超えて呑んで笑って懐かしがって!」に決めました。当番幹事も世代を超えて異議なしの即決でした。年に一度の同窓会総会、先輩・後輩の垣根を超えて、無礼講でもいいじゃないか。楽しく母校を語り合い、親睦を深めよう!・・・ 続きを読む

サグラダ・ファミリア教会「生誕の門」の彫刻を完成【東京あさぼらけ第3号】

高25回の外尾さん スペイン・バルセロナ在住の同窓の彫刻家、外尾悦郎さん(高25回)が、16年がかりで取り組んできたガウディ設計の大聖堂、サグラダ・ファミリア教会の「生誕の門」の彫刻を完成させました。1882年に着工された大聖堂は、8本の塔と2つの門の完成までに100年を要し、さらに150年かかるといわれる歴史的大事業。生誕の門の彫刻も20世紀初頭から始まり、外尾さんは昨年末、最後に残された聖母子や天使等からなる像を仕上げました。 ・・・ 続きを読む

夏の甲子園目前 県大会決勝で夢破る思い出 1回無死3塁、初球スクイズ成らず!【東京あさぼらけ第3号】

でも、負けて胴上げされた監督を自負今泉敏英(高19回=福岡県粕屋郡須恵町在住) オオゴトだったマスコミの取材攻勢昭和58年7月、夏の高校野球選手権大会の福岡県大会、我が福高は予選、県大会と6校を破り、ついに久留米商業との決勝戦に臨んだのです。その記念すべき試合に監督を務められた幸運に感謝し、残念さを噛み締めつつ、当時の熱い思い出をお届けします。まず、決勝の前日です。マスコミの取材が一段と激しさを増しました。それまでも、あの福高が予選を突破し県大会に出場するということで多少の取材はありましたが、勝ち進むごとに取材攻勢がオオゴトになりました。準決勝までは、私が我が社オンボロマイクロバスで選手を久留米球場まで送迎していました。選手諸君も、幼稚園児の小さな席で大変きつかったと思います。さすがに、準決勝を勝って決勝戦の前日は私も疲れてしまい、部長、副部長の先生方と相談して、球場近くの旅館に生徒たちと一緒に宿をとりました。それまで一緒に練習を手伝ってくれたOBで、現福高野球部監督の塩崎先生(高20回)も同宿してもらいました。彼は当時、広島大学の4年生、高校の体育教員を目指しており、その受験前の大事な時期にもかかわらず、後輩たちのためにバッティングピッチャー役を買って出てくれ、大いに手助けしてくれました。また宿では、監督の私の代わりにマスコミの取材を一手に引き受けてくれ、大変助かりました。しかし、その代償は大きく、その年の試験は失敗、一年の浪人生活となりました。それでも彼にとり、あらゆる意味で意義ある一年だったと私は信じています。 先取点のチャンス、迷わず初球スクイズいよいよ決勝の日です。私は早起きして宿の屋上に上がり、朝日を浴びながら八百万の神に、どうぞ勝たせて下さいとお願いしました。当然でしょうが、勝負の前は宮本武蔵のような心境にはなれず、拝むというより、ただただ「頼む」ばかりでした。そして、いざ決勝開始。初回一番打者の入りがいきなり3塁打を打ち無死三塁、絶対欲しかった先取点のチャンス。ここは迷わず初球スクイズです。当時の私は、初球スクイズが好きでした。まず外されて失敗した記憶がありません。まして、相手の久留米商業の投手は、春のセンバツにも出場した好投手山田武史君です(その後、社会人野球を経て巨人軍に入団し、10試合に登板)。我がチームより格上だと思っていましたから、初球スクイズしか頭になかったのです。当時スクイズのサインは、部長である戸川先生にお願いして、二人の共同作業でした。他のサインは、全部自分が出したのですが、スクイズだけは見破られると万事休すですから、分からないように部長にお願いしていたのです(なお、スクイズのサインは部長がメガネをかけておられたので、それを利用しました)。私は、2番打者が打席に入る前、戸川先生に言いました。「一球目スクイズをお願いします」。部長は心得たもの、すぐにサインを出され、打者も確認して準備は整いました。 とんでもないボールが来て……後は、打者が空振りしないことを祈るだけです。まずバッテリーが警戒して外すことはないと思っていましたから。ここで私の心に余裕があれば、先輩の言葉が頭に浮かんだはずです。「お前ね、たとえば初回に無死3塁になっても、いきなりスクイズやらで点を欲しがるような野球やるなよ」と。いつだったか3つ上の先輩から、酒を酌み交しながら監督道を教授していただいていたのです。それを忘れて、勝ちたい一心での初球スクイズのサインでした。もう一つ私の失敗があります。それは相手投手の性格を見抜けなかったことです。彼は、ヒットを打たれるとムキになって投げる癖があったのです。冷静になって、あれやこれや考えると、初球のスクイズは無謀だったのです。案の定、外した球ではありませんでしたが、ムキになって投げたものだから、とんでもないボールが来て、バットにかすりもせず、虎の子の大事な走者を殺してしまったのです。皮肉なもので、その2番打者はヒットを打ちました。ちぐはぐな攻めの典型を絵に描いたようなものでした。功を焦りすぎました。何としても先取点を取って相手を焦らせて優位に立ち、試合を進めるのが私の戦略でした。とにかく、この初回の攻撃は非常に悔いの残るものでした。もっと私が冷静に判断しておればと悔やまれます。 やっぱり行きたかったぜ、甲子園!その後の試合経過は記憶に残っていませんが、「2対8」で甲子園を逃したのでした。それでも、負けて選手諸君から胴上げをしてもらった監督は私くらいじゃなかろうかと自負しています。また、ありがたいことにその後、OB会からも、同級生(高19回)からも残念会を盛大にやってもらいました。その席でポン友曰く、「お前、甲子園に行かんで良かったぜ。甲子園に行っとったら人生狂うとるぜ」。俺「うるせえ!!!・・・ 続きを読む

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