同級生同士、青春の夢実らせる!
高校18回の藤堂省さんと山口俊彦さん

今回は、福高在学時代から共に切磋琢磨を続け、それぞれの夢を実らせている仲良し同級生を紹介します。高校18回(昭和41年卒)の“神の手”を持つ移植医療の先導者といわれる北海道大学医学部第一外科教授、藤堂省さんと、心に響く重厚なバスの歌声と幅広いレパートリーを持ち国内外を舞台に活躍しているオペラ歌手の山口俊彦さんです。

早朝5時に登校してピアノ練習

高校3年間ずっと同級だった2人をとりわけ結びつけたのは早朝の教室での出会い。「家にピアノがなかったので、学校に午前5時ごろ登校して授業が始まるまで音楽室でピアノの練習をさせてもらっていた」山口さんと、始業の1時間前には教室の掃除をして勉強していた藤堂さんは、お互いを意識し、将来を語り合うようになったのです。

ドイツでの演奏会後のパーティーで熱唱する山口さん

進路を意識する2年生の後半ごろは、藤堂さんによると「山口君の方が医者になりたいと言っていたように思う。僕は中学(和白中)で文芸部だったこともあって、新聞記者や弁護士、政治家に関心があった」とか。

それが、3年生になると山口さんは「オレしか歌えない声で歌いたい」と東京芸大を目指すことを決め、藤堂さんは「人助け、人の命を救う仕事をしたい」と九大医学部に志望を定めたのでした。

その時の2人が交わした言葉が「歌と医学と道は違うけど、将来2人でドイツに行って同じ下宿で勉強しよう」。

末期患者との出会いが進路を決める

その後、藤堂さんは九大第1外科にいた25歳の時、医師としての進路を決定づける患者と出会うことになります。藤堂さんが医師として最初の死亡診断書を書くことになったその患者は、末期の肝不全。間もなく32歳の若さで逝った患者の妻は、初めての出産を控えていて、夫の死に半狂乱になりながら、「どうして主人を助けられなかったの」と藤堂さんに訴えたのです。

日本の移植医療の前進に向けて厚生省(当時)で記者インタビューに応じる藤堂さん(97年9月。共同通信社提供)

当時まだ肝臓外科が今のように発達していなかっただけに、「いつかこういった重症の患者さんを助けられる外科医になろう」と、臓器移植を始め世界の先端医療をリードするアメリカへの留学を決意したのでした。

そして、36歳で渡米するまで、医学はもちろん、米軍基地に出掛けては英語の実践勉強を積むなど“その日”に備え、84年1月、世界初の肝臓移植手術を手がけたスターツル博士のいるピッツバーグ大学外科の客員研究員になったのです。

遅れた日本の移植医療の道を切り開こうと帰国

藤堂さんはすぐに頭角を現し、手術の腕はスターツル博士が「難しい手術はトードーにやってもらえ」と語ったというほど。

94年には同大の教授となり、97年に北大に迎えられるまでの在米12年間に執刀した肝臓移植は優に1000例を超えています。

先端医療の中心アメリカにあって世界の移植医療をリードしてきた藤堂さんが、移植医療では「途上国」といわれる日本に戻ったのは、胆道閉鎖症の子どもを持つ日本の母親から届いた、日本国内では移植手術を受けられないことを訴える一通の手紙でした。

実際、日本からの留学生を預かっても、帰国した彼らが移植手術を待望している患者のために腕を振るう機会がないという状況が続いており、日本の移植医療のこの困難な道を切り開くのは自分しかいないと決断したのです。

その藤堂さんが先導者となって、日本の移植医療は、ようやく動き出したのです。「進取の気性に富む北海道で欧米に負けない医療システムと若い外科医を育てたい」と、福高ではバレーボール、九大ではラグビーで鍛えた体で、さらなる挑戦を続ける藤堂さんです。

晩学の苦難を克服し歌声は輝く

一方、小・中学(箱崎中)と剣道少年だった山口さんは自ら「僕は晩学」と語るように、歌との出会いは福高に入ってから。同級生の溝上哲思さんに「コーラス部に入りたいけど女子ばかりなので、ついて来てくれ」と頼まれたのがきっかけでした。

イタリアで家族ぐるみの再会を果たした藤堂さんと山口さん

その時、3年生の先輩、小野塚満郎さんに「お前、良い声してるよ」と言われ、生まれて初めての“ハモる”経験にすっかり魅了され、歌漬け、ピアノ漬けの高校生活が始まったのです。

当時、コーラス部の顧問は一昨年亡くなられた江口保之先生。その江口先生を通して、先輩で音楽界で活躍中だった吉岡巌さんから「声楽をやってみる気はないか。2、3年自分の所で勉強すれば芸大に入れるかもしれない」と言われ、山口さんの心は固まったといいます。高校3年の夏休みのことでした。

以来、芸大受験に向けての浪人生活では、ピアノとソルフェージュが弾けない、採れない、歌えないなど晩学ゆえの「苦難の連続」(ご本人の弁)。芸大では大学院に不合格になった経験も。

しかし、文化庁オペラ研修所第1期生、文化庁在外研修員として4年間のイタリア留学といったチャンスをたゆみない努力で手にした山口さんは、着実に「自分しかできない、自分だけに与えられた自分の存在、その責任の重さと輝き」(山口さん自身の表現)を身につけていきました。30代初めには、イタリア・パルマのオペラコンクールなど国際的なコンクールに次々と入賞し、83年からは西ドイツ(当時)カイザースラウテルン市ファルツ州立劇場の専属歌手として2年間契約するなど活躍の場を広げていきました。93キロの体と晩学の苦難を克服したからこその歌声は高い評価を受けています。

85年、帰国後も97年の新国立劇場柿落とし、エディンバラ国際フェスティバル・オープニング公演では、めったに褒めない新聞評論で高い評価を得た山口さん。演じる力はもちろんですが、オペラ界への情熱の深さは並大抵ではありません。

オペラに対する理解のまだ浅い日本で、もっとみんなが簡単にオペラを見られるようにしたい、オペラを根づかせたいと、自宅のある大田区で「大田区民オペラ協議会」を立ちあげ、この10年来、市民レベルからのオペラ振興に取り組んでいます。

今年の公演は、10月19、20日、大田区民ホールでヴェルディ作曲『ナブッコ』。連絡先は、03-3757-3965の山口さんまで。

“神の手”を持つと尊敬を集める医師・医学者と、国際的に活躍するだけでなく、同窓会総会や母校を訪ね親しみあふれる歌唱指導や公演もするオペラ歌手――その2人を育んだ母校の教室での青春の日々。人生の出会いの妙を“演出”した母校への想いを新たにさせられる2人のエピソードです。

蛇足ながら、2人のドイツでの下宿生活の夢は実現しませんでしたが、10数年前、イタリア・ミラノでの楽しい家族ぐるみでの再会を果たしたそうです。

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