福中第一回卒長寿の秘訣は「あせらず、悲しまず、たじろがず、はばからず、やりすぎず……」田中太郎さん(95歳)に聞く 【東京あさぼらけ第2号】

福中第一回卒(大正十一年)の大先輩である田中太郎さん(横須賀市在住)は、六年前に新聞の同窓会案内で東京福中・福高同窓会総会の開催を知って出席され、その後も出席いただいています。今回、九十五歳の誕生日をお元気で迎えられたのを機にお話をうかがいました。  二年間は修猷館の寄宿舎を仮校舎に  ――満九十五歳、おめでとうございます。 田中 ありがとうございます。明治三十七年(一九〇四年)八月三日の生まれです。日露戦争開戦の年で、名前の「太郎」は、当時の内閣総理大臣である桂太郎に因んで付けられました。  ――ご出身は。 田中 佐賀県の鳥栖です。鳥栖尋常小学校に入学しましたが、福岡市の中之庄町に移転し、轟尋常小学校を卒業し、新設の福岡中学校に入学しました。  ――福中時代の思い出を。 田中 入学した当初はまだ校舎がなく、二年間は修猷館中学の寄宿舎を利用した仮校舎に通いました。同期生は二百名でした。当時の電車賃が一銭五厘だったのを覚えています。軍事教練があり、中園淳太郎先生にしごかれたのを思い出します。特にゲートルの巻き方が大変でした。また、英語の橘崎広之介先生は厳しく、孟宗竹の棒で叩かれましたね。  それに、当時は相撲が盛んで、相撲大会で修猷館と対戦し、福中が勝って意気揚々と行進をしました。私は出場しませんでしたが、同級生たちと卵の差し入れをしました。三年の時に新校舎に入りました。福中の隣のタバコ工場(現JT)の倉庫に入り込み、葉巻を失敗して吸ったこともありました。  私のあだ名は「ミスターワイヤー」で、文字通り身体が細かったのですけれど、頑健で福中時代は皆勤でした。山登りが好きで、一人で英彦山、阿蘇山にも行きましたよ。  食べ物は百回噛む  ――卒業後は。 田中 当時の進学先は旧制の高等学校の他に海軍兵学校や陸軍士官学校などがありました。私は、父の転勤で茨城県の古河に転居したこともあって、浦和高等学校に入りました。新設の高校でしたから、ここでも第一回の卒業生です。  大学は東京帝国大学工学部機械工学科に進み、昭和三年に卒業して鉄道省(国鉄・JRの前身)に採用されました。当時は不況で就職難でしたが、運よく入れました。戦後は運輸省に移り、昭和二十七年に退官しました。退官後は機械・電気関係の会社を設立し、カセットレコーダーのオートリバース装置や自動車の電動方向指示器などの特許を取得しました。  ――最後に長寿の秘訣をお聞かせください。 田中 私の場合、食べ物をよく噛んで咀嚼するよう気をつけています。百回噛むようにしています。また、あせらず、悲しまず、寂しがらず、たじろがず、嘆かず、はばからず、紛らわさず、やり過ぎず、乱暴せず、わめかずを心掛けて日々を過ごしています。  ――本日は、良いお話をありがとうございました。ますますお元気でお過ごしくださいますよう後輩一同お祈り致しております。  ・・・ 続きを読む

会長あいさつ「継続は力なり」で 【東京あさぼらけ第2号】

会長 三野定(中15)  『東京あさぼらけ』第二号が発刊されることになって、大変喜んでいます。事務局長はじめ広報委員の皆さんのご苦労に心から感謝致します。  昨年六月、思いもかけぬ成り行きで、バルト三国のひとつエストニアの首都タリンを訪れました。そこで胸を打たれたのは、「歌う革命」の話と歌の祭典の会場でした。  エストニアは十八世紀初頭、ロシア皇帝の統治下に入り、その後二世紀にわたって農民は奴隷同様の生活を送られたのです。ロシア革命後、幾度も独立しようと試みたのですが、その都度つぶされ、随分搾取もされたようです。ソ連は、民族の強制的な「入れ替え」もやっています。  そのような逆境の中で、エストニア人の独立への願いを繋ぎ、団結を維持し得たのは、歌の祭典だったといいます。一九八八年六月に催された祭典には、毎夜十万人を超える人々が集い、独立への要望を歌に託したのです。爾来、この夏の行事は、「歌う革命」(Singing・・・ 続きを読む

■ 編集後記 ■【東京あさぼらけ創刊号】

・広報誌の誌名は、福岡高等学校同窓会の「朝ぼらけ」編集委員会の了解を取り、「東京朝ぼらけ」とすることで、常任幹事会の承認を得た。 ・題字の揮毫は青邱さん(小島和夫氏)にお願いした。 ・同窓会に関する、記事、写真、情報を求む! ・創刊号は写真も広告もなし。次号では格好をつけなきゃ。 ・やっと終わった。たった4人の広報委員で、編集の経験者は2人だけだもん。シカタガナカタイ。 (hiro) ・・・ 続きを読む

高校19回30周年記念同窓会【東京あさぼらけ創刊号】

高校19回30周年記念同窓会 樋口英司(高19) 私たち高校19回は現在関東地区に96名がいます。 年1回1月に学年の同窓会を開いてきましたが、30名前後の集まりでした。 昨年度東京福中・福高同窓会総会の当番幹事を20回、21回の方達と仰せつかりお陰様で、同窓会が活動的になりました。 1組から10組までの各クラス幹事と女性幹事、学年幹事の私とあわせて12名の組織が出来上がりました。 そんな時、タイミングよく卒業30周年がやってきたのです。平成8年度の東京福中・福高同窓会総会にも福岡から3名の同窓生が参加して、今年の卒業30周年の企画作りが始まりました。 私たちの30周年はちょうど80周年に当たる為、80周年の記念行事と同時に参加できる企画にしようと言う事になりました。当然福岡での行事であり、東京からの参加をどう促すかが我々東京側の幹事の課題となりました。総会で作り上げた組織を使い何度か会合を重ね、東京からの参加目標を20名としたのです。次にパンフレットを作り、参加者ニュースを作り、何度も会合を重ね、結局25名の参加を得る事が出来ました。 平成9年6月7日午後6時、レイクサイドホテル久山。一年間かけて準備した30周年記念同窓会です。参加者は先生4名、地元勢が90名と、他の遠隔地から10名、我々東京組が25名、総勢130名でした。先生方には久保田先生(国語)、高原先生(数学)、船津先生(国語)、吉永先生(英語)に参加をして頂きました。受け付けの机の上には、東京の野瀬君が作った高校卒業時の写真入り名札が570枚用意されました。(名札は当日の飛び入りを考慮して全員の分を作りました。) 恐る恐る自分の名前を名乗る者、あつかましく博多弁で指図等をするもの、和気あいあいグループで到着する者、等々、だんだん騒がしくなってゆきました。参加者が揃った所で記念写真を撮り、宴会へと進んでゆきました。30年ぶりの顔は、誰が生徒か先生か分からないくらいでした。50歳を目前にした125名がそれぞれ18歳の写真を胸に付け夜の更けるのも忘れて語り明かしたのでした。 次回は40周年を予定していましたが、40周年まで待てないという人が多く、35周年の再会を約して翌日東西に分かれて行ったのです。 ・・・ 続きを読む

「松浦安弘展」【東京あさぼらけ創刊号】

「松浦安弘展」 亀山忠義(高8) 我等の同期、松浦安弘氏の画業50周年記念美術展が、平成9年10月28日より11月3日まで、福岡市美術館にて開催され、新聞やテレビにも採りあげられました。在校当時から現在までの主要作品が約200点です。その作品集は、全国の美術館にも寄贈されました。 倉富先生、瀬川先生ほか恩師の方々を始め、先輩後輩在校生そして一般の方々、なんとその数、5,000人以上の入場者でした。 構想から5年、準備に2年、総費用約2,000万(作品集の製作費を含む)の大事業。その実行委員会は、会長に青木秀氏(西日本新聞社会長)、事務局長には乃美吉江氏(福高8回)、そして会計に曾根崎文子氏(福高8回)です。 時を同じくして、11月1日、高校8回の還暦記念同窓会が開催され、全員で松浦氏にエールを贈りました。大阪、東京からも多数応援に行きました。 松浦安弘氏の絵は、すでに専門家の間でも高い評価を得ているわけですが、近年ますますその境地は深まってきたと思います。さわやかで、ふくいくたる情感が静謐な空間に満ちております。 「白という魔術師を駆使し、魔法の階和美を繰り広げている…昭和60年代からこの白はまばゆいばかりの南欧の光となる…一瞬にして時間が停止した静寂の世界……」美術評論家・・・ 続きを読む

東京福中・福高同窓会と私【東京あさぼらけ創刊号】

東京福中・福高同窓会と私 水月和子(高4) 早いもので、私ども第1回の女生徒が福高を卒業してから、45年もの年月が過ぎてしまいました。 昭和24年、男女共学の実施により百名近い女生徒が、それまで男子だけだった学校に入ってきたのですから、先生方をはじめ、当時の男子生徒にとっても大変な出来ごとだったと思います。もちろん私どもも、お掃除の行き届いた女学校から、武骨な男子生徒がガタガタと下駄の音をひびかせて廊下を歩いているのを見たときはショックでしたし、また授業の時は、女学校と中学校の学力の差の大きさに愕然としたものでした。女学校での3年間、全くお粗末な勉強しかしていなかった私ども(?)を熱心にご指導してくださった先生方、クラブ活動などで親切に面倒を見てくださった先輩方、共に学び、遊ぶ折々に女子だけの学校にはなかった様々の新鮮な驚きや刺激を与えて下さった同級生、これらの方々に出会えた福高での3年間は、何時思い出しても一番懐かしい大切な時代です。 平成元年に、馬場前事務局長から東京福中福高同窓会の組織作りを手伝うよう、お誘い頂いたとき、時間的なゆとりがあったこともありますが、喜んでお受けしたのは、このように良き師、良き友に出会えた福高が大好きだからでした。故加藤会長を中心に、まず名簿作りからスタートし、会則を作り、翌春第1回の総会を開いた時の出席者数は235名で、その時の会場であった日本工業クラブは身動き出来ないほどでした。 あれから早くも8年になろうとしています。事務局が新しく替わり、委員会が組織され、広報も発行されることになりました。総会にご出席くださる方の数は年ごとに増えて、300名をはるかに越しています。毎年交替の当番幹事の方々は、お忙しい仕事の合間を縫って、出席して良かったと皆様に喜んでいただける総会を開くために、一生懸命頑張っていらっしゃいます。 ふるさと福岡を遠く離れて生活していますと、九州の人というだけでも懐かしさを感じますが、福中・福高の卒業生と聞くとさらに強く親近感を抱くのは私だけでしょうか。ここまで確立してきた同窓会の組織が、ただ総会を開くためだけでなく、同窓生の縦のつながりを生かして様々な活動が出来るように発展していくことを期待しています。そしてまた年1回開かれる総会は同期会の前座で終わることなく、いろんな分野で活躍して来られた先輩の方々や、今元気に活躍中の後輩の方々、福岡との縁がうすくなって寂しさを感じていらっしゃる方々や、初めて東京に出てきて戸惑っていらっしゃる方々の楽しい交歓の場になることが出来たらと願っています。 ・・・ 続きを読む

東京福中18会の始まり【東京あさぼらけ創刊号】

東京福中18会の始まり 諸岡健次郎(高1) 昭和18年に入学した吾々が「東京一八会」として東京で初めて会合をもったのは昭和56年の2月のことである。その時は幹事役として飯田俊郎君と渡辺哲□君が世話をしてくれた。ラグビーの土屋英明君や志波正孝君、それに土屋君と小学校で一緒だった國崎一郎君などが旗振りをしてくれたのではないかと思われた。在京者の数十名に招集をかけ築地の新三浦に次の顔ぶれ即ち、 飯田俊郎、内田□、片山伸也、國崎一郎、志波正孝、田渕靖昌、土屋英明、平野治、帆立昭蔵、宮石哲郎、三秋順蔵、宗俊博人、森浩民、諸岡健次郎、渡辺哲□の15名が集った。 殆んどの者が卒業以来初めて会うようなことで幼な顔から夫々を思い出すのに時間がかかるような有様であった。然し会場は博多の老舗「新三浦」の東京の店(この店は白井善三郎さん〈高3〉、現在は日本ラグビー協会の専務理事、□が代表者の店である)なので料理は勿論、博多での馴染みの深い鶏の水炊きである。当時この店に博多弁のうまい仲居さんが居て「今日のお客さんはみーんな本物の博多弁の解る人ばっかりやけん私も嬉しかー」と仲々座持ち良く世話をしてくれるものだから、一同はすっかり博多に居るような気分になり、大いに食べ、大いに飲み、そして大いに喋ったものでした。 そして、一次会ではおさまらず二次会へ行こうということになり、土屋君が「ロイツ」へ皆んな来やい!というのでタクシーに分乗して新宿歌舞伎町の店へ行ったことが想い出される。この日が契機となり、その後毎年欠かさず集まるようになり現在まで続いている。その後の様子は次号以降に、想い出しながら記述して行きたいと思っている。 ・・・ 続きを読む

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