昭和22・3年から昭和32・3年頃まで 第1回東京福中同窓会の頃は錚々たる大物が居た。福中1回卒の進藤先生と、東京都議会議長をやった大ボスで体も図太い浦部武夫さん、それに電通の副社長だった坂本英男さん達がござった。だから、福中同窓会の発会式は電通本社でひらかれた。昭和23年4月のことよ。 慈父のごとき大親分とも言われる16回卒の杉山竜丸さんも、玄洋社の関係で進藤先生に来いと呼ばれて行った。杉丸さんがその帰りに同期の桑原康敬さんのところに寄って、「今日、福中の同窓会の発会式が行われた。今日が初めてばい。この次からあんたも出て来んしゃい。」と言って帰った。 そのしばらく後で、下北沢の大谷さんの大屋敷を使って、福田赳夫さんが昭和の大茶会というのをやった。16回卒の橋本嘉夫さんが大谷さんと親しかったから、桑原さん達と進藤さんやら浦部さんやらそれから坂本さんやら、天下の茶会にみんな集まろうと言うて行った。そして、橋本さんが15世千宗室のところに、代議士になりたての山下徳夫さんを連れて行って、千宗室から茶号を貰ったな。この茶会には福中同窓会の核となる人達が集まった。 1回卒の坂本新蔵さんが、この時から昭和32・3年頃まで、10年位幹事をやらっしゃった。この方は確か亡くなられたな。その後は加藤さんを会長に仰いだ。その頃は同窓会で年会費を取ってなかった。そのときそのときの会費取ったって、事務費が集まるわけないよ。そもそも会場費が足りなくなるんだから。だから、誰か出さなきゃ困るんだよ。進藤先生が自分のポケットから出さっしゃった。加藤さんの紹介で、帝劇の下にあった神戸大学の寮が安いちゅうて使ったりした。 東京同窓会の組織固まる(平成2年) A 進藤先生が引退されたのを機に、通常会費を取ろうと考えた。馬場さんに事務局をお願いして、組織を固めてやっていってもらおう。そのためには同窓会費を徴収しよう。総会の会費をいくらにしたら、どのくらいの人が集まるかどうか分からんばってん、とにかくやろう。 B やっぱり会費を取るようになって安定してきましたね。 A 会費を出した人は来るけん出席率がよくなる。会費を出した人は俺は会費出してるんだちゅうて、大きな顔して来らっしゃるからさ。 B 230人集まったんですね。第1回は。日本工業クラブでやりましたでしょう。 C そのとき235人集まりましたよ。事務局の記録を見てきました。 A 会費を出しちゃるけん。そこで縁がつながったんだよ。会費を取ったのがよかったんだよなー。それにしても馬場さんは大変だったなー。 B だけど、第1回の工業クラブは盛会だったね。 C 盛会でしたよ。ぎゅうぎゅう詰めでした。 B それ以前は80人とか90人位でしたかね。 A 90人ちゃ大成功よ。50人から70人位の間よ。進藤先生が来ないちゅうともう集まらんわけよ。みんな進藤先生の顔を見たいちゅうて来らっしゃるわけよ。 C 全員集合の写真がありましたよね。 B そうそう、写真を撮っていましたよね。あの頃は。 C 今は多くて撮れないですよ。 A 高校は殆ど来ないわけよ。あの頃は高校はもう。安くしてるんだけどな。半額位にしてるんだけど、来やしないんだよ。 D 連絡もなかったですよ。全然知らなかった。 A そのね、葉書代がまた大変なんだよ。下の方の高校には案内状も出さんわけよ。葉書代が無いわけだから。 先輩方に、東京福中・福高同窓会の草創の時期について、語っていただいた。興味ある人脈図やエピソードなど紹介したかったが、割愛せざるを得なかった。(文責・八久保) ・・・ 続きを読む
故加藤正君追悼記【東京あさぼらけ創刊号】
故加藤正君追悼記 岡村福男(中8) 大正13年春福中入学試験発表日を迎え、今も変らぬ校内に差し掛かった時、白線2本が輝いて見える真新しい校帽を被った童顔の残る少年に出会いました。新しい制帽は合格のしるしだなと瞬時に悟り、思はず発表場に向って走りました。 入学式が終り、指定された5組の教室の机に落ちつき、ふと前を見ると合格発表日に校門で出会った制帽の君で、小柄なういういしい加藤正君と判りました。更に驚いたことは春吉小学校5年生から飛び越し入学を果した俊才と判り、ういういしい少年の道理が判りました。 福中卒業まで私は加藤君と一緒の組でしたが、格別想い出に残る事はありませんが、ただいたずら坊やと申しますか、「わるそう」だったかも知れません。物理の奥川先生は足が悪いので、その歩き方を上手に真似て奥川先生の勘気にふれたようです。 加藤君の酒好きは有名なものですが、中学5年生のとき宮崎県青島に修学旅行に参りました。先生達とは別行動でしたから、旅館で日本酒を飲み、大淀川の橋の上でドイツ製金巻煙草「ゲルベゾルデ」を回しのみして大人の世界に一寸足を踏み入れた様な気分を味った時、加藤君は矢張りリーダーだった様です。 お互に社会人となって私は地方勤務が多く、東京在勤の彼と暫く接する機会はありませんでしたが、紐育勤務を終えて本社油槽船部長に就任して彼との接触は濃密になりました。何分とも出光興産加藤常務は有力なタンカー荷主の責任者であり、気易く学友気分で接する事は彼の廻りの人達の厳格な監視が許しません。それでもよく飲み屋に誘われたものです。 彼の飲み屋は銀座の日本式小料理屋で、ウイスキーの摘み物は「キンピラごぼう」と酢づけ「もづく」がお決まりの品で、注文なしでテーブルに並びます。既に此の時期に福岡県人会々長、福中福高会長を務め、多忙な社会人生活を送ってゐました。 社会人生活の中で最も精彩を放った事件は石油連盟脱退であります。昭和37年に石油業法が施行され原油の輸入が自由化されました。之は出光興産としては自由競争をして消費者に奉仕すると言ふ出光店主の強いテーゼがあり、偶々此の自由化の布告の折、加藤君は石油連盟の需給委員長を務めて居った為に生産調整、生産割当のとりまとめ役を仰せつかったとは申せ、自社のテーゼに反する事とて石油連盟を脱退する仕儀となり、世間は大騒ぎする事件に発展しました。私は終始タンカー運営に携わってゐましたので、出光興産は重要な荷主であり、加藤専務を疎かにする訳には参りませんが、非常に商売上手な方で難しい初ものの注文をよく買いました。例えばLPGタンカー、溶融硫黄船の如く日本にはまだ存在しない特殊船の注文でありますが、随分苦労して要望に答へる事が出来ました。之は日本に於ける第一船の光栄に浴す事が出来た訳です。従而晴ればれといつもの小料理屋で一パイやれた訳であります。功なり遂げて出光石油化学工業会社の社長を任命され社業の発展に絶大な貢献をなしとげ、又国家から高い勲位も叙されてゐます。 天命とは申せ一昨年12月17日84歳で此の世を去りました。御通知をいただき弔問に参りましたら柩の上にウイスキーボトルが供へてあり又水割コップが御線香台にお供へしてあり、終生の友は矢張りウイスキーであったかと感慨無量の気持になりました。 敬弔。 ・・・ 続きを読む
広報誌の発刊によせて【東京あさぼらけ創刊号】
広報誌の発刊によせて 会長代行 三野 定(中15) 待望久しかった東京福中・福高同窓会の広報誌が、広報委員会の皆さんのご努力でようやく創刊の運びになったのは、誠に嬉しい次第で、ご同慶の至りです。委員の皆さんのこれまでのご尽力に心から感謝し、拍手を贈ります。 東京を中心にした関東地区には、福岡周辺についで多数の同窓生がいます。私たちの母校は、昨年、創立80周年を迎えましたが、福岡での盛大な記念式典で深い感銘を覚え、さらに21世紀への発展を心に誓われた方も多いと思いますが、こうした感激を東京でも忘れぬようにしたいのが、東京同窓会の願いです。 故進藤一馬先生ご存命の間は、先生を囲んで同窓会が毎年催されていましたが、十分には組織されてはいませんでした。故加藤正前会長の下で有志の努力によって、組織を固め、会則を整えて、若々しい同窓会になったと思います。 同窓会員が、交流を深め、互いに励まし合い助け合って行くためのもっとも基本的な場は、会員が一堂に会する総会、消息をつなぐ会員名簿と広報誌であろうと考えます。この度、ようやく広報誌の誕生に漕ぎつけました。 本部同窓会では、福高通信「朝ぼらけ」という立派な広報誌が、既に72号の発行を重ね、年2回ながら母校と同窓生の消息を伝えて、無くてはならない存在になっていますが、当誌もわれわれ東京福中・福高同窓会員にとって、なくてはならないものにしたいものです。 広報誌の発行は一口にいっても、実はなかなか大変なようです。企画立案、原稿集め、編集をして印刷に回し、ゲラ刷り、校正と、広報委員会の皆さんの苦労が続くでしょう。せめて、原稿集めくらいは楽にしてやりたいものです。 この広報誌がわが東京同窓会と共に大きく育つことを心から念願し、そのための会員皆さんのご後援・ご協力をお願いして、創刊のご挨拶に致します。 ・・・ 続きを読む
東京あさぼらけ新聞 第1号〈発刊:平成10年3月1日〉
東京あさぼらけ新聞 第1号です。スマートフォンの方でダウンロードしたい方や下記のPDFビューアーが正しく表示できない方はこちらからPDFへ直接リンクしています。 ・・・ 続きを読む