名誉会長 草場良八(中学2回)

わたくしの中学時代の思い出を紹介して、教育に関する感想を綴ってみたい。
わたくしどもは、その先生に文法を教わった。怖い先生だった。厳しい先生であった。しかしクラスの誰一人、先生に殴られた者はいない筈である。わたくしの記憶にはない。それでも怖い先生だった。
文法の予習や復習を怠った覚えは一切ない。ところが現在でも、文章を書くとき、動詞の活用など、自然に脳の中に流れてゆくようになっている。また、「植ゑ、据ゑ、餓ゑ」は「わ行のゑ」などと今では必要のない用法なども、ひとりでに湧き出てき、そのたびに遠い昔を懐かしんでいる。
福沢諭吉の『福翁自伝』には、次のようなエピソードがある。
諭吉が大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだことは有名である。あるとき、諭吉が腸チフスに罹り、中津藩の蔵屋敷で寝ていると、緒方先生が見舞いに来られた。先生は諭吉の容体を診たのち、「乃公(おれ)はお前の病気をきっと診てやる。診てやるけれども、自分で処方することはできない。何分にも迷ってしまう。この薬あの薬と迷うて、あとに至ってまた薬の加減をするというような訳で、しまいには何の療法をしたか訳が分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにしておれ」と言って、先生の友人の医者から薬を貰うことにし、先立って毎日来て容体を診て病中の摂生法を指示するだけであった。
諭吉はこの件について、「今日の学校とか学塾とかいうものは、人数も多くとても手に及ばないことで、その師弟の間はおのずから公(おおやけ)なものになっている。けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授くるに迷うというのは、自分の家の子供を療治してやるに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有様であった。後世だんだんに世が開けて進んで来たならば、こんなことはなくなってしまいましょう」と述べている。
前述のとおり、わたくしにとって怖かった先生は、おそらくクラスメイトにとっても同じことだったのではないか。あの怖さは、厳しさ故であろう。厳しさは、先生の教育に対する情熱のほとばしりの所為(せい)であろう。教え子を自分の子と同じように、一人前にするために教えようとする情熱以外の何物でもなかったのではないか。師の恩の有難さを感じる次第である。
あの時から六〇年の歳月が過ぎた。諭吉が腸チフスを病んだのは、それよりもさらに八〇年以上前のことである。諭吉が言うように、師弟の関係は濃密さがなくなっていくのが時代のおもむくところであろう。しかし、先生方の教育に対する情熱は、教え子を啓発するとともに、その中に何かの種子を残すことによって、尊い師恩を感じる、豊かな稔りをもたらすのではないか。
同窓会は、いろいろな事を語り伝える場として、それを土台に明るい明日を築く準備の場として、各位に利用されることを期待してやみません。

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