故加藤正君追悼記 岡村福男(中8)

大正13年春福中入学試験発表日を迎え、今も変らぬ校内に差し掛かった時、白線2本が輝いて見える真新しい校帽を被った童顔の残る少年に出会いました。新しい制帽は合格のしるしだなと瞬時に悟り、思はず発表場に向って走りました。

入学式が終り、指定された5組の教室の机に落ちつき、ふと前を見ると合格発表日に校門で出会った制帽の君で、小柄なういういしい加藤正君と判りました。更に驚いたことは春吉小学校5年生から飛び越し入学を果した俊才と判り、ういういしい少年の道理が判りました。

福中卒業まで私は加藤君と一緒の組でしたが、格別想い出に残る事はありませんが、ただいたずら坊やと申しますか、「わるそう」だったかも知れません。物理の奥川先生は足が悪いので、その歩き方を上手に真似て奥川先生の勘気にふれたようです。

加藤君の酒好きは有名なものですが、中学5年生のとき宮崎県青島に修学旅行に参りました。先生達とは別行動でしたから、旅館で日本酒を飲み、大淀川の橋の上でドイツ製金巻煙草「ゲルベゾルデ」を回しのみして大人の世界に一寸足を踏み入れた様な気分を味った時、加藤君は矢張りリーダーだった様です。

お互に社会人となって私は地方勤務が多く、東京在勤の彼と暫く接する機会はありませんでしたが、紐育勤務を終えて本社油槽船部長に就任して彼との接触は濃密になりました。何分とも出光興産加藤常務は有力なタンカー荷主の責任者であり、気易く学友気分で接する事は彼の廻りの人達の厳格な監視が許しません。それでもよく飲み屋に誘われたものです。

彼の飲み屋は銀座の日本式小料理屋で、ウイスキーの摘み物は「キンピラごぼう」と酢づけ「もづく」がお決まりの品で、注文なしでテーブルに並びます。既に此の時期に福岡県人会々長、福中福高会長を務め、多忙な社会人生活を送ってゐました。

社会人生活の中で最も精彩を放った事件は石油連盟脱退であります。昭和37年に石油業法が施行され原油の輸入が自由化されました。之は出光興産としては自由競争をして消費者に奉仕すると言ふ出光店主の強いテーゼがあり、偶々此の自由化の布告の折、加藤君は石油連盟の需給委員長を務めて居った為に生産調整、生産割当のとりまとめ役を仰せつかったとは申せ、自社のテーゼに反する事とて石油連盟を脱退する仕儀となり、世間は大騒ぎする事件に発展しました。私は終始タンカー運営に携わってゐましたので、出光興産は重要な荷主であり、加藤専務を疎かにする訳には参りませんが、非常に商売上手な方で難しい初ものの注文をよく買いました。例えばLPGタンカー、溶融
硫黄船の如く日本にはまだ存在しない特殊船の注文でありますが、随分苦労して要望に答へる事が出来ました。之は日本に於ける第一船の光栄に浴す事が出来た訳です。従而晴ればれといつもの小料理屋で一パイやれた訳であります。功なり遂げて出光石油化学工業会社の社長を任命され社業の発展に絶大な貢献をなしとげ、又国家から高い勲位も叙されてゐます。

天命とは申せ一昨年12月17日84歳で此の世を去りました。御通知をいただき弔問に参りましたら柩の上にウイスキーボトルが供へてあり又水割コップが御線香台にお供へしてあり、終生の友は矢張りウイスキーであったかと感慨無量の気持になりました。

敬弔。

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