緑川あつ子(高27回)
横浜市の教員になって23年。市立南高等学校に転勤して5年を迎えました。「ナンコー」の呼び名で地元に親しまれている、今年創立50周年を迎える学校です。男女比が7対10弱で、女子の力が実際の数以上に圧倒している感があります。(これは、近年どの高校にも見られる傾向のよう)。
遥か昔の高校時代の私と今を生きる高校生。時代と地域は違っていても、底にある不変のものと、変わってしまったものとがあります。南高生を通して見えるものを少し話したいと思います。
驚くほど確認したがる「相手にとっての自分」
「ミドティ、俺(私)だいじょうぶかなぁ……」。何度この有声無声の言葉を聞いたことでしょう。「ミドティ」とは私の南高校での呼称です。ミドリカワ・ティーチャーの略です。何でも略したがる若者言葉の一例でしょうか(そう言えば、我々の高校時代も、恩師をあれこれ呼んでいましたネ。懐かしい名前を思い出します)。自分の時代と決定的に違うのは、その呼称を面と向かって使わなかったなあ、ということ。「砕けた呼び名を使うことが親愛の情を表している」というのが彼らの論理らしいです。
大人との距離を言葉や態度の砕け具合で測っているのが見受けられます。砕けているということは、気持ちが近いということだから、と。
そして、親愛の情を示した後に相手に望むのは、自分の「ポジション」を「言葉で表して欲しい」ということ。だから「大丈夫かな?」を多用する。言葉はない時でも、その態度や雰囲気で、子猫が母猫を見上げるように、目に見えない尻尾をパタパタと振っている大型犬が「よし!」を待っているかのごとく、期待の眼差しが私に向けられているのを感じます。生徒の誰よりも背の低い私は、頭上20センチからの視線に、その時に発すべき言葉を探します。
友人関係、学力、恋愛……高校生を取り巻く悩みは多々あります。そして彼らは驚くほど「相手にとっての自分」を確認したがる。友達から、大人から、「大丈夫だよ」という「言葉」をもらって、やっと安心するのです。
「自分がそう思うから、それでいい」は「理想」ではあるけれど、自分でそう出来るかと言えば、自信がない。
幼い頃から「目で見る形・耳で聞こえる形」で表すことを是として育ってきた子供たちにとって、「見えないもの・聞こえないもの」を通して物事を判断することは、恐ろしく不安なことなのかもしれません。自分が言って欲しい言葉や数字を受け取って、やっと安心するのです。
「大丈夫だヨ」「その方が良いと思うよ」「相手もそう思っているのでは?」・・・その言葉を受け取った時のほっとしたような表情を見るにつけ、その子の心の不安さを感じられ、切なさと少しの苛立ちを感じることがあります。特に、一昨年は3年生の担任だったため、生徒たちは殊更不安だったのかもしれませんが・・・。
一人で乗り越えるべき。昔は他の人に、ましてや教師になんか、そんなことを聞かなかった。
ーーそう思われる方も多いでしょう。
私自身、高校時代、級友ましてや大人にそんな問いなどするという発想は無かったものです。ですが、今の子供たちは、成長過程で、自分で考え判断していく気持ちを、けっこうスポイルされてきているのではないか、と思うことが多々あります。
与えられる情報は膨大で、しかも「見える形」のものが多い中、自分の中に絶対的な価値基準を形成することは、とても大変なことのようです。背中を押してくれる一言があれば、一歩踏み出すことが出来る。その一助の方法に賛否両論があることは分かりますが、毎日のようにどこかで発せられる彼らの言葉を、今改めて考えています。
「オハヨ」「元気?」「だいじょうぶ?」「おやすみ」……高校生の必需品ともいわれる携帯。互いにメールでこれらの他愛もない言葉をやりとりしているのも、言葉で誰かと“繋がっていること”への確認行為であると言えます。生徒と教師の間には、深くて暗い溝がある、なんて斜に構えていた昔の高校生は、今、その溝が浅く狭くなっていて、その狭間になんとも心地いい橋が架かっているのを感じています。向こうには、わがまま・自己中心と言われる今どきの高校生が立っています。自信たっぷりのようで、子供たちは心の中で呟いていることは多いのではないでしょうか。
「俺(私)大丈夫かなあ?」