庄嶋厚生(高9回・在福岡)

福高新聞創刊号

「福高新聞」創刊は昭和30年11月18日です。何日も徹夜を続け、ようやく生徒の手に配布できた時の感動は何ものにも代えようのないものでした。
新聞部の設立は昭和30年5月の生徒総会で承認され、職員会議で何回となく議題となり、5カ月後にやっと許可されました。新聞部の創設が福高生の間で問題として提起されてから実に11年目のこと。何度となく生徒総会で決議されながら、それまで実現できなかったと聞けば皆さまも驚かれるでしょう。
私は舞鶴中学時代に「舞鶴新聞」の発行にかかわっていたので、福高に入学したとき当然「福高新聞」があるものと思い、入部しようとしたのですが、新聞部がないと聞いてびっくり。そこで1年生の私は同級生たちと準備会を発足し、生徒会や職員会議にお願いを始めました。しかし初めは全然取り合ってもらえませんでした。
学校側は、数年前に始まった原水爆禁止運動が大学から高校へと浸透し始めており、社会研究部や新聞部といった組織はその中心になると思ったようでした。政治活動とのかかわりを持つのを心配して、火種は作らないほうがよいというのが学校側大多数の意見であったように思います。
私たちの準備会は福高新聞を生徒会の中に位置付け、自治の意識と文化の面から捉えていたので、生徒会活動が活性化し、体育祭や文化祭などの活動を全生徒の自立的活動として発展させたいと考えて取り組んできました。新聞は多くの人たちによって作られるのだから、一個人の政治的思想に偏向するようなことはないと主張しました。
度重なる学校側との話し合いの結果、1年間は試行期間とするという条件でようやく許可されることとなりました。そして、学校側との対立点が具体化したのが3号発行のときでした。部としての主張をする「明暗」というコラムの一文が物議をかもしたのです。創刊早々に廃部や発刊中止になってはと心配しましたが、何とか切り抜けることが出来ました。
当時は部室もなく、文芸部や映研部の部屋などに仮住まいをし、また地下の食堂を借りて活動するなど大変な苦労の連続で、特に予算が他校の年間10万円以上なのに比べ3万円しか貰えず、広告収入で大部分を補うために広告取りに多くの時間を割かねばならないなど、財政面での苦労は16、17歳の私たちにとって一番思い出に残る苦労であったように思います。
題字の「福高新聞」の文字は当時の書道の八尋武人先生に書いていただいた格調高いもので、朝日や毎日といった全国紙より立派だと、西日本新聞の方から褒めていただいたことも思い出します。

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