長谷川法世(高16回)

以前、「週刊文春」に高26回卒の芥川賞作家・藤原智美君が、演劇部奥の奇妙な空間と装置について一文を寄せていた。
玄関を入って右の階段を上がり詰めた踊り場が演劇部室で、藤原君はその部室の奥にドアがあって、「そこを開けると巨大なダクトが床から壁に抜けるように通っている二畳があらわれた」と書く。そして、空調室なら計器類があるだろうに何もなく、校舎にはそんなダクトを必要とする空調設備などなかった。別の機能を持っているのかとも考えられるが、一度もそいつは音を立てたことがなく、管理のために人が訪れたこともなかった、と続けている。
その奇妙な装置と場所について彼が長く抱いていた謎を、僕があっけなく解いてみせるのにはためらいがある。しかし、「東京あさぼらけ」の編集子は、謎は解いてあげなきゃあ、とこともなげに原稿を押しつけるのだった。

昭和36年度の僕ら16回生の入学式で長敏一郎校長が概略次のようにいわれた。「諸君は幸運です。板付基地の騒音が問題になっていますが、我が校は君たちの先輩が長く寄付を積み立てたお陰で、防音窓と換気装置が完成し、本年度から使用できることになりました。諸君は寄付なしで、気持ちよく勉学に励むことができるわけです」
福岡での新生活が始まった。気温が上がって換気装置の本番というころ、担任の森先生がこういわれた。「今日から天気の悪い日以外は窓を開けるように。実は、換気装置を動かしてみたら、1カ月で当校の1年分の電気代を使うことが分かりまして。以後換気装置は使えないということになったわけでして……」
藤原君の謎の正体はこんなものなのだ。さらに付け加えると、僕はその不思議な部屋に侵入した最初の福高生のはずだ。僕は美術部員で、美術準備室の隣が地学部室だった。僕らの卒業後、地学部は部員がいなくなって廃部となったのは風の便りに聞いた。その後、演劇部室となったのを藤原君の一文で知った。地学部にはしょっちゅう遊びに行った。部長はおとなしい性格だった。僕ら美術部員が屋上で騒いでいるのを校門の辺りから見上げた先生に見つかって、地学部室に逃げ込み、駆け上がってきた先生に、地学部は1カ月閉鎖する、と宣言されてもひとことも反論せず指示に従った。
そういう次第で地学部は、デッサンに疲れた美術部員と、それから九大受験組がいつも将棋ばかり打つ休憩所となった。
3年の体育祭が終わったころだったと思う。問題の両開きの扉を、「これはなんのドアや?」と、みんながだんだん気にするようになってきた。そこで、何人かで交代で針金やら釘やらで「黄金の七人」よろしく鍵開けにとりかかったのだった。確か2日がかりで開いたと思う。
そこには脱穀機のような機械があり、はじめ何かはわからなかった。藤原君と同じくみんな狐につままれたようだった。すぐに換気装置だといったのは僕だ。校長の話を思い出したのだった。
だが、換気装置といっても誰も納得しなかった。しかし僕はしっかり記憶していた。それには理由がある。先輩たちが払ってくれた寄付を積み立てたお陰で換気装置が完成した、と校長はいわれた。その先輩達の中には僕の兄姉が含まれていたのだ。僕は4人兄弟の末っ子で、全員が奇跡的に福高に合格した。だから上の3人は在学中、授業料といっしょに寄付を払っていたのだ。家計の苦しかったわが家では、末っ子の僕が何かをねだると、「兄ちゃんたちの寄付がかかるもんやけんねぇ……」というのが、母のいいわけになっていた。
そんなわけで、僕はわずか1カ月余りしか稼働しなかった換気装置のことを、しっかり記憶に残していたのだった。僕の小遣いを無駄遣いしたこの機械を僕は、二度足でごついたと思う。
その秘密の部屋は、蝶番の芯棒が外れるように細工して何度もさぼり場所にしたが、地学部や美術部自体が隠れ場所だったので、それさえ用なしになったというお粗末だった。

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